密林より


真っ暗なオフィス。明かりは随分前に落とされている。PCのモニターだけが明るい。少し寒いことに気付いて手が止まった。そうか、空調も切られてるんだっけ。嫌な季節だな。

顔を上げる。さっきまで疎らに人もいた気がするのだけれど、いつの間にか視界には空席のデスクが並んでいるだけだった。腕時計を見ると、二十五時。「さっきまで」とか「いつの間にか」とか言うには、少し長い時間が経過していた。普段はもうちょっと早く邪魔が入るんだけどな。

製品の安全検査の結果が来たから、月末の会議の為に資料まとめて、と思ってたら検査結果に疑問点が見つかって、忘れないうちにと思ってすぐに問い合わせのメール送ったら、時差のせいで向こうは昼だったからすぐに返信が来たもんで作業が捗っちゃって、気付いたら今。終電はもうない。

「やっちゃったなぁ。」

退勤前にメールしたら出勤時には返信が来てる。これは便利だ。時差ビジネス万歳。ってアイデアは良かったと思うけど、いやー、夜中に気兼ねなくリアルタイムで遣り取り出来るってのは残業を助長するだけだと思うんだよね。

ちなみに、検査やった会社は地球のほぼ逆側。ブラジルにあるらしい。ここと違って暖かいに違いない。いや、むしろ暑いか。熱帯だし。

「誰かいますね?」
「あ。」

さっきのが聞こえてしまったらしい。聞き慣れた声が飛んできた。夜中まで残っていると、決まってこの声が聞こえてきて、私の残業を打ち切りにかかる。普段より二時間は遅い。あっちも相当根詰めてやってたな。

取り敢えず身を隠した。この前はうっかりモニターを切り忘れたせいで簡単に見つかってしまったから、今回は気を付けなければ。足音が近付いてくる。床のパンチカーペット、そろそろ交換しないとダメなんじゃないか。幾ら夜で静かだからって音鳴りすぎだろ。

そっと物陰から様子を伺うと、暗い中でも分かるくらい色白の男が迷いなく私のデスクの前まで歩いてきて、足を止めた。

「ベルセリオス君。」
「・・・。」
「どこにいるかは分かりませんが、聞こえていますよね?」
「・・・。」
「モニターを切っても本体からは音がしますよ。」

誰に言うとでもなく彼はそう言った。静かなオフィスだから大きな声でなくとも全体に聞こえる。またあっさり見つかった。諦めて出ていくと、彼はベースのポーカーフェイスに少しだけ呆れを漂わせた。この顔ばかり見ているから、元々こういう顔のように思えてくる。

「貴女ほどの人がそれを見落とす。完全にオーバーワークですよ。」
「はいはい、お説教どうも。」
「私とかくれんぼをして楽しいですか?」
「お説教聞くよりは楽しいです。」

私の憎まれ口に彼は無反応だった。実際のところ、このかくれんぼが嫌いではなかった。勿論、良いところで邪魔が入ってムカつくこともあるけれど、深夜残業の恒例行事というか、何というか。

彼はイクティノス・マイナード。入社前からの付き合いだから、もうすぐ四年になる。私の採用担当だった社員で、今は隣の課の課長で、何かと説教が多い。口さがない同僚は「エミィの天敵」なんて呼んでいる。

「また残業つけてないですね?」
「趣味で金もらうのもアレですから。」
「責任感を持ちつつ、きちんと対価を受け取って働いて下さい。」
「はいはい、いつもすみません。」
「今月で五回目ですよ。」

元々、何かと私のやることに口を出す方だったけれど、最近は特にその傾向が強まっているような気がする。私が遅くまで残ってる回数はそんなに変わらないのに、説教を聞く回数は増えている。ん?つまり…。

「最近忙しいんですか?」
「そうでもないですよ。」
「夜中良く会いますし。」
「たまたまです。」
「なら良いですけどね。」
「・・・。」
「ん?」
「貴女に心配されるようではいけませんね。」

彼が私へ向けてではない溜息をついた。お、今のは心配したことになるのか。なるのか?いや、まぁ、突っ込みたいトコはあるけど、彼はこういうのを心配と呼ぶ訳で、へー、じゃあ、私とか彼に心配されてばっかか。癪だな。

「ともかく、今日はもう帰りなさい。」
「終電ないんで始発までいようかなーって、明日休みですし。」
「もう今日です。タクシーを呼びます。」
「そんな贅沢なもんヤです。給料日前だし。」
「私も帰りますから一緒に乗って行きなさい。」

テンポ良く「それ、もっとヤです」と冗談っぽく言えたら良かったのかもしれないけれど、うっかりタイミングを外してしまった。タイミングを外して本気っぽく「嫌です」というほど嫌な訳ではないし。今帰って寝たら休日の午前中を丸ごと棒に振る事もなさそうだし。

「良いですね?」
「はーい。」

私が内心の渋々さを五割増しほどした態度でそう言うと、彼のポーカーフェイスの目元が少しだけ優しげに緩んだ。そういうの、ちょっと反応に困るんだけどな。





「どちらまで参りましょう?」
「フィディックの21番街、でしたね?」
「ええ。」

タクシーに乗り込むと、彼は私に家を確認した。覚えていたのが意外だった。私は興味がないことは全く覚えないから、他人の住所など一つとして頭に入っていない。

まぁ、うちの商材について入社40年の工場長よりも知っているという彼の記憶力ならば大したことではないのかもしれないけれど。

「お仕事ですか?遅くまで大変ですね。」
「ええ。」
「この辺だと、スタンレーか或いはミリエルですか?」
「ミリエル・メタルです。」

彼は相変わらずの落ち着いた口調だったけれど、愛社精神に溢れる人間に独特の、少し照れ臭そうで誇らしげで、という雰囲気が一般人の十分の一くらいのささやかさで感じられた。勿論それは彼の気持ちが十分の一という訳ではなく、彼の感情表現が全体的にささやかであることに由来する。

総合機器メーカーとして国内二位、世界十位のミリエル機械工業。その純粋子会社。金属を作ったり、混ぜたり、曲げたり、伸ばしたりする会社。あまり儲からない代わりに堅調。私は彼ほど愛社精神を持ってないけど、でも、まぁ、それなりの愛着はある。

「ミリエル・メタルです、ねぇ。」
「何か言いました?」
「何も。」

彼の口調を真似て呟いただけ。私が知る限り、この人は物凄く理屈っぽい。言動には全て論理的に筋が通った理由があって、仕事中にうっかり「何で?」などと聞こうものなら懇切丁寧な説明をお見舞いされる。

でも、それも突き詰めて行けば愛社精神の発露という精神的、感情的なものに由来するというのは不思議な感じだ。人間だから当然と言えば当然だけれど。

「うち、良い会社ですよね。」
「急にどうしました?」
「別に。」

どこが良いのか、を彼に尋ねたら、投資家向けか新入社員募集用の資料に使えそうな 文面をこの場で作ってくれるんじゃないかと思う。何だか可笑しかった。

「マイナードさん、好きな食べ物なんです?」
「え?」
「好きな食べ物。」
「ん…桃ですかね?」
「へー。」

果物なんだ。意外だ。いや、正直それはどうでも良い。私の唐突な質問に対して、彼は不思議そうな表情を浮かべている。運転手はこれを見ても不思議そうな表情だと分からないだろうけど、私には分かる。

「どこが好きなんですか?」
「甘さと香りと果汁、特にああいう瑞々しくて甘い香りが好きなんです。」
「何でですかね?」

一度目は短く分かりやすくまとめてくる。もう少し踏み込むと詳しく話そうとする。彼は少しだけ間を取って考えて、すぐに口を開いた。

「子供の頃、何かで良い桃を貰って食べた時の思い出が強いのかもしれません。私の育った地方にも果物はありましたけれど、柿ですとかスイカですとか、あまり香りが良いものはありませんでしたから。」

予想通り。何を説明させても、なるほどなぁ、と思わせるものがある。私はこれまで何度も彼からお説教を受けてきたが、感情的に反発こそすれ納得出来なかったことは一度もない。

「何でも理由付くんだ。」
「何にでも、とはいきませんよ。」

全てが○○だ。ということを証明するには、全てをチェックしなければならない。反証が一つでもあれば破綻するから、証明は極めて難しい。彼はそんなことを思ったのかもしれない。私は日常会話にまで高度な論理性を求めてはいなかったけど。

会話が途切れた。彼は黙って窓の外を見ている。何の変哲もない夜の街の景色。私には、彼が何となく外を見ているように見えたけれど、多分尋ねたら何かしらの理由を付けるのだろう。彼はそういう人だ。

「どちらに止めましょうか?」

いつも買い物に行くスーパーの前を過ぎた。馴染みのペットショップ、その隣の美容室。その先の角を曲がれば私が住むマンションがある。

「ええ。あ、その角の所で止めて。」

タクシーのドアが開く。乗ったのとは逆の右側だった。レディーファースト的なアレで彼が私を先に乗せたのだ、と降りる段階になって気付いた。ダメだな。女子力低すぎる。

「前まで行かなくて良いんですか?」
「ここから10メートルくらいですし。」
「そうですか。また月曜日に。」
「どうも。」

男と一緒のタクシーで帰宅なんて、同居人達に見られたら誤解されかねない。いや、誤解はされないか。私の干物ぶりは十二分に理解されてるし。それが良いような、悪いような。

走り去るタクシーに手を振るでもなかったが、何となく目で追った。何となく、身体の左側が寒い気がした。何となく溜息が出た。あぁ、私は何となくが多いな。

「ただいま。」
「ほほはっはへー。」

深夜にも関わらず、同居人の一人は居間で寛いでいた。どうやら「遅かったねー」と言いたいらしい。右手には携帯電話、左手には歯形のついた丸ごとのリンゴ、頭にはタオル。風呂上りか。

「泊まってくるかと思った。電車あったっけ?」
「タクシー。」
「お、贅沢。」
「給料取りだからたまにはね。」

彼女の携帯が光と振動でメールの受信を知らせた。前に話していた男友達だろうか。男ばかりの理系コミュニティーに、こういうタイプが放り込まれていると、それは勿論引く手数多な訳で。

いや、自分の学生時代も似たような環境だった筈だけれど、殆ど浮いた話はなかった。あ、つい、見栄を張ってしまった。全然なかった。彼女と自分との差を探す。まず目に付くもの。

「やっぱ女は胸か。」
「んー?」
「何でもない。」
「あ、何か荷物届いてたよ。」
「ありがと。風呂は?」
「ロベルト入ってる。」
「出てきたら教えて。」
「はーい。」

それだけ頼んで自分の部屋へ。私が風呂から出てきた頃にはもう始めてそうだな。週末だし。これがあるから朝帰りしようかと思ったんだけど。仲が良いのは結構だけど、意外と壁が薄いし、結構声がでかいし。いや、一緒にお風呂、とかやってないだけましか。

そんなことを思いつつ、鞄を置いて、床を埋め尽くしている本やらDVDやら電気ネズミのぬいぐるみやらの合間を縫ってベッドに辿り着き、腰を掛ける。コートやらジャケットやらを脱ぐのは後回し。ひとまず一息つく。

机の上に置かれていた小さな箱が目に入った。左側の口角が上がったようなデザインのダンボール。何を頼んだんだっけな。歴史群像のバックナンバーだったか、ガンダムエースだったか。

「あー。」

開けてみて、ちょっと後悔。面積に対して割高な印象を受ける布切れが箱には入っていた。通販で、しかも本来は本屋のこれでブラジャー買うなよ。一昨日か一昨昨日の自分を責める。ただまぁ、買い物をする時間はないし、そろそろ流石に替えなきゃいけないっぽかったし。

通販が届いた、というワクワク感がさーっと引いてしまって、現実に立ち返る。コートを掛けて、ジャケットを脱いで、お茶でも飲んで風呂の順番を待って…と思ってコートを脱ぐと、片側のポケットにアンバランスな重みを感じた。

出てきたのは、量の割には割高な印象を受ける小さめの缶飲料。まだ少し温かかった。タクシーを拾う間に寒いだろうと彼が買ってくれた缶コーヒー。気を遣ってもらってしまった訳だが、帰って寝るだけの人間にコーヒーを買うのは、冷静に考えてどうなんだろう。

「ま、良いですけど。」

飲み物が先に手に入ったから順番を変更する。ジャケットを掛けないままベッドに放って、缶を開けた。コーヒーの味の差が分かる方ではないし、冷たくはないという程度の温度だったけれど、何となく美味しい気がした。

「ふぅ。」

多分、あまり一気飲みに適した飲み物ではないけれど、何となく一息で空にしてしまった。空き缶をゴミ箱に投げる。良く響く音と共に缶が吸い込まれていった。良い気分だった。

多分、私の中で閾値を越えたのはこの辺りだったと思う。薄々と予感はしていたようにも思えるけれど、どちらにせよ後付けに過ぎない。私は説明するのが苦手だ。とにかく結論から言うと、ついさっき別れたばかりの彼の顔が見たくなった。 おぉ、これが噂に聞く焦がれる思いという奴なんだろうか。

私は彼が好きなのだろうか。好きなのだろうな。勿論、これは恋愛的な意味で。最近残業が多かったのは構われたかったからか。私も案外可愛い所がある。自分を鼻で笑った。どうも恋愛というのが久々過ぎて感覚が掴めない。いや、前例から学ぶタイプでもなし、好きにやれば良い。うん、そうしよう。

気持ちのままに行動することに不安はなかった。彼は10歳も年上だし、現実問題を解決するための思考力と器用さとを持っているし。それより何より、彼は断固とした優しさの持ち主だ。受け容れるにせよ、拒むにせよ、胸に飛び込んできた女を悪いようにはしまい。

でも、彼が如何に残酷で、容易に人を傷つけるような人だったとしても、或いは誠実ながら不器用で互いに傷を負うことが予想されたとしても、私は同じ行動を取るだろう。何せ私は後先を考えない人間だから。

欲望に従って家を飛び出そうと思い、さっき掛けたばかりのコート、さっき放り出したばかりのジャケット、さっき置いたばかりの鞄へ手を伸ばしかけて、ダンボールと目があった。いや、箱に目はない。ただニヤリと笑う口だけがある。

「よし。」

今日という日にこれが届いたのも、いや、届いたのは正確には昨日だけど、そんなことはどうでも良くて、これも何かの縁だ。今着ていたものを一旦全て脱ぎ捨てて、箱から取り出した、新しいだけが取り柄の下着をつける。それからもう一度全てを着直して、ジャケットを着てコートを羽織って鞄を持つ。よし、行こう。

「お。」
「あ。」

ドアを開けると、風呂上りのロベルトがそこにいた。胸にバスタオルを巻いているけれど、私が共感を覚える体型のせいでバスタオルはやや余り気味だった。口に出すと友情が壊れるから言わないけれど。

「エミィ、お風呂開いたけど?」
「あー、ごめん。出かける。」
「え、今から?」
「うん。あと、金借して。」
「は?」
「5000くらい。あ、出来れば1万。」

手元の現金が乏しくて、ちょっとタクシーに乗るには心許なかった。ロベルトは色々言いたげだったけれど、額の大きい方の紙幣を私に一枚渡してくれた。うん、娘の大事な時には何も言わずに送り出してくれるのがお母さんだよね。これも、言うと怒られるから言わない。

「ありがと。行ってくる。」
「気をつけて。」
「そっちこそ、程々に。」

最後のは言うと怒られると思ったけれど、つい言ってしまった。眉間に皺が寄るのを確認する前に舌を出して家を飛び出す。エレベーターを待つのがもどかしくて階段を三階分駆け降りた。私の体力も捨てたもんじゃないな。運良くタクシーはすぐに捕まった。

「ロッホナガーの8番街。」

勝手に動いて彼の住所を告げた自分の口に驚いた。何が「他人の住所など一つとして頭に入っていない」だ。いや、待てよ。興味がないことは覚えないんだから、興味の対象なら覚えていたって良いじゃないか。

彼はどんな顔をするだろう。きっとこれまでで一番迷惑そうな顔をするに違いない。うん、どうせだからこれ以上ないくらいに困らせよう。それはとても愉快だ。コーヒーのお蔭で夜更かしも出来そうだし、明日は休みだし、何かあっても下着は新しいし。

私の口角が通販のダンボールのように上がった。





「ども。」
「どういうつもりです?」
「それ聞くの野暮じゃないですか?」

玄関先に立って怪訝な顔をしている彼の脇をすり抜け、靴を脱いで勝手に上がる。彼のマンションがオートロックとかじゃなくて良かった。わざわざ来たのに門前払いというのは厳しい。

「洒落たとこ住んでますね。」

広くはなかったが、内装は小奇麗で景色が良かった。部屋には必要最低限の物しか置かれていない。片付ける能力というのは部屋の物を適切な量へ減らす能力に依存する、という新聞記事を読んだな、そういえば。

「何の用ですか?」
「女が夜中男の家に押し掛ける必要のある用、です。」

ダイニングテーブルの椅子にコートとジャケットを掛けて、ソファーに勝手に腰掛けた。彼の反応を見る。表情には明確には出ていなかったけれど困っていたのが分かった。良い気分になった。

「・・・正気ですか?」
「そっちは自信ありませんけど本気ではあります。」

困った末に彼がやっと出した言葉がそれだった。彼はまだ自分の部屋のリビングダイニングに立ち尽くしている。ソファーで寛いで彼を見上げている私と、どっちが家主か分からない。

「座ったらどうです?」
「ええ。」
「隣でも良いですけど。」

ソファーの隣をポンポンと叩いた。万一彼が座ったら押し倒してやるつもりだったけれど、彼は少し呆れた様子で椅子にかけた。

「急ですね。」
「さっき思いついたんです。」
「貴女らしい。」
「私もそう思います。」

彼は少し冷静さを取り戻したらしい。人差し指でこめかみを押さえながら思案する風の、いつもの無表情を見つめる。感情は読み取れなかったが、彼の容姿が素敵なのは良く分かった。

「繰り返しになって恐縮ですけれど。」
「大丈夫ですよ。」
「どうしたいんですか?」
「んー、週に二日くらいここから会社通う生活がしたいですかね。」
「具体的ですね。」
「今、思いついたんですけどね。」

彼が困る。楽しくなってくる。抱き着いてキスをしたい。出来ればその先も。いや、流石に処女にはハードルが高いけど。でも要は、それくらい盛り上がっている。

「確認ですけど。」
「ええ。」
「私が貴方のこと好きなのは伝わりましたよね?」
「・・・ええ。」
「良かったー。ほら、私、説明苦手じゃないですか。」

目的の半分位は達せたことになる。私がほっとして笑うと、釣られるように彼が苦笑いを浮かべた。持ち前のポーカーフェイスが崩れる。その顔がまた良かった。もっと困らせたい気持ちになる。

「貴女、変わってますね。」
「今更じゃないですか?」
「そうでしたね。」
「初対面の時からこんなだったでしょう?」
「ええ。協調性と常識と自律心がない天才でしたね。」
「そういう女、興味ありません?」
「・・・。」
「否定しないと肯定と取りますよ。」
「・・・。」

彼は否定しないまま椅子から腰を上げると、ソファーに腰掛けた。私の隣、20センチの所に彼が座ったことになる。自分の心拍数が上がったことに音で気付いた。沈黙がしばらく続いて、それからやっと彼がまだ否定の言葉を口にしていないことに思い至る。

「あの。」
「何です?」
「否定、してませんよね?」
「ええ。」
「・・・。」
「・・・。」
「あの。」
「はい。」
「喜んで良いところですよね?」
「面白みのない三十男を捕まえたのが嬉しければ。」

そこまで澄ました顔で言ってから、彼は頭を抱えて大きな溜息をついた。どっと疲れたらしい。それなりに振り回した自覚はあるから彼の肩をぽんぽんと叩いた。彼が見ていないのを良いことに盛大に破顔した。

「ふふふっ。」
「何か負けた気がしますね。」
「惚れたのこっちですけど。」
「貴女からは惚れた弱みを感じません。」
「喜んで良いところですか?」
「どうですかね。」

こっちから惚れた割に主導権が取れてしまった。彼は常識的な人だから、突飛な手を使うと対応が後手後手になってこちらが有利になる。うん、これは大事なことだ覚えておこう。

「大変なことになってしまいました。」
「手を切らなきゃいけない愛人が三人くらいいるとか?」
「いませんけど。」
「いたら驚きます。」
「でも、貴女は愛人三人より大変そうですから。」
「ふーん。」

彼との距離を縮めた。右半身が彼に触れる。微かな熱が感じられるのが心地良かった。何だ、随分人並な感想じゃないか。私も捨てたもんじゃないな。

「不束者ですが。」
「ええ、本当に。」
「その不束者が良かったんでしょ?」
「ええ、本当に。」
「照れます。」
「今、一勝三敗くらいです。」

彼の肩に頭を置いた。思ったより自然な動きだった。頭を撫でられる。おー、これが年上の男の包容力か。なるほどね。と、ふざけた考えで頭を回さないと照れ臭さに耐えられない。でも、嫌ではない。良い気分だ。

「どこが良かったんですか?」
「それを聞きますか。」
「こういう質問、いつも答えてくれますよね。」
「趣味が悪いですよ。」
「理屈っぽく愛を囁かれるのも良いかな、って。」

最初から決めていた。受け容れられても、拒まれても、きっと納得行く説明をしてもらおうと。私は彼が自分の心の内を理解させようと万語を尽くして語りかけてくる時間が好きだった。それが好きな食べ物の話であれ、仕事の話であれ。

「参りましたね。」

もしも、その話の中心が自分自身だとしたら、それほど楽しいこともないだろう。自分のことが好きだということを、丁寧に説明してもらえるというのは何て馬鹿馬鹿しくて幸せなことだろう。

彼の表情には照れがあった。常人の三割程度だろうか。でも、それでも彼の表情の感情表現としては強烈で、私は筋肉が吊るくらい口角が上がってしまう。

「少し、長いですよ。」
「ええ。」

だって、時間はたっぷりある。















あとがき
アマツカさんが描いてるハロルドマンションの女性バージョンの設定を使ってます。うちのハロルドは男ならエミール、女ならエミィということになっています。高専卒で大手メーカーの子会社で働く理系会社員。Amazonを頻繁に使ってます。オタク気味です。エミィはまな板ですww

あと、住所はウィスキーの名前から取りました。部屋に沢山あるもんですから笑