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Time to say a fare-thee-well
彼に「大事な話がある」と伝えたのは今朝だった。時間は正確には決めていなかったが、夕方手が空いたら来るようにと言っておいたから、もうそろそろだろうか。 仕事に関わる重要な件について、そういう形で伝えたことはないから−情報部の仕事ならもっと機密保持に拘った連絡方法を取る−彼は今日の話題について何かしら当たりを付けているかもしれない。 いや、いくら彼が聡明とは言っても、そうそう予想がつかないのではないだろうか。何せ、私自身も私がこの決断をしたことについて意外に思っている。 ドアがノックされた。彼は私の部屋のドアをノックする時、意図的に特徴を持たせている。非常時にはノックの調子を変化させることで私にそれを伝えようとでも考えているのだろう。何事にも抜け目ない、彼らしい習慣だった。 「シャルティエです。」 「どうぞ。」 あまり逞しいとは言えない身体を無駄なく動かして、彼は二歩三歩と私の元へ歩みを進める。見慣れているはずの彼の姿だったが、改めて見ると感心させられる。 決して強さを感じさせないのだが、実際に探してみると全く隙がない。彼は私よりも10以上も若いが、それを差し引いても彼と斬り合って勝てる要素はどこにも見つからない。 戦闘者として完成されている上に、指揮官としても、参謀としても、諜報員としても、優れた能力を持っている。考えてみれば私は恐ろしい怪物を手元に置いていたものだ。 「この前の提案書、面白く読ませてもらいました。」 「提案書なんてものではないですよ。」 「陣地攻撃の件を教官配置に付いている同期に話したところ、随分感心したようでね、もう歩兵学校が研究を始めたということだよ。」 私は少し前から、部下達に任務の中で気付いたことについて書いたメモを提出させているのだが、彼の物は優秀な情報部将校の中でも出色だった。 本人が目立ちたくないと言うため彼の功績にはなっていないが、彼のメモ書きから生まれた戦術や制度について、既に専門機関が実現に向けた研究を始めている。 しばしば私は、目の前の小柄な青年がシャルンホルストやマハンにも匹敵するような人物なのではないかと思う。そして、つくづく自分が凡人に過ぎないことを実感させられる。 「本題に入りましょうか。」 彼の表情に少しだけ緊張が走った。私は引き出しから一枚の紙を取り出し、机の上に置いた。細かい字が並んでいる訳ではない。彼の位置からでも十分読み取れるだろう。 発 軍務省長官官房/軍務省人事局 宛 陸軍大尉 ピエール・ド・シャルティエ <転属辞令> 軍務省長官は貴官に以下のごとく命令する。 地上暦18年10月末日を以って貴官の 地上軍参謀本部第二部諜報課付 の任を解く。 これに代わり、同11月初日付で貴官を 地上軍第418独立工兵連隊 連隊参謀長に任ずる。本令到着後、貴官は可及的速やかに着任準備を整え、これを遂行すべし。 軍務省長官/地上軍総司令官 陸軍大将メルクリウス・リトラー 軍務省人事局長 陸軍少将ロベール・アンリ・ジュネ こういう書類に有名無実化が進んでいる連邦政府の機関である軍務省の名前が出てくるのは、我らが地上軍に残る、それほど多くない連邦政府軍の痕跡だった。しかし、今回の件についてそんな形式面での興味深さはどうでも良かった。 「転属ですか。」 彼は年齢に見合わない程の卓越した技術で以って、自らの内心に発生したものを抑え込んでいるように思えた。私以外の人間の目には、彼の内心の衝撃は全く写らないだろう。私も、その方法を教えたのが私だから予想が付いただけだった。 「ハロルド・ベルセリオス中佐を知っていますね。」 「はい。面識も何度か。」 「貴方を気に入ったのだそうです。是非自分の部隊に欲しい、と。」 「光栄ですね。」 彼は微かに口角を上げて、そう言った。社交辞令としては完璧な部類に入ると言って良い。 「私も、良い話だと思う。」 正直な話、私は前々から彼を転属させることを考えていた。情報部の汚れ仕事しか知らないのは彼にとって不幸だと思えたし、私は個人的に大切な存在であるかれに危険な命令を出すことを苦痛に感じていたし、既に彼は私が扱えるレベルの人材ではなくなっていた。 彼への嫉妬心が決断を後押ししたことは否定出来ない。その感情は、彼と私との私人としての関係にさえ悪い影響を与え兼ねない。彼を手放すことは私人としての私にとって大きな痛みだったが、それは必要なことだと思えた。 天上軍少年兵出身で私の子飼いという政治的に難しい経歴を全く気にせず、彼の能力だけを見て評価してくれる有能で器の大きな指揮官。ハロルド・ベルセリオスからの申し出は運命的なものにさえ思えた。 「………。」 「シャルティエ。」 「はい。」 「まだ断ることも出来るが、どうだろうか?」 彼の表情は読めなかった。これまで彼は、地上軍における全ての時間−それは捕虜の期間も含めて−を私の従属下で過ごしたのだから、そこから離れることに不安はあるだろう。 しかし、個人として近しい関係にあることと、軍人として近しいことを切り離す必要があるように私には思えた。彼の将来と私の精神の平穏のために。 それにしても情けないことだ。私は自分にとっても最も大切だと思える人を手放すという決断を極めて受動的にしてしまった。いや、それが私という人間の限界なのかも知れない。 「私は思うんだ。」 「はい。」 「君を籠の鳥にしておいてはいけないのではないか、と。」 私は自分の思いをかなり都合良く要約して彼に伝えた。しかし、情報部という籠は随分とひどいものだ。危険と成果だけが通常の戦場よりも大きく存在し、名誉はどこにもない。 「鳥に籠の外で生きていく自信がなくとも?」 「生きていく自信がない?」 「…あまり。」 こんなにも才能に溢れていながら、どうして彼は自分の生き方を狭めようとしてしまうのだろう。それも、後暗く危険な世界へ。いや、その原因である私が言うことではないな。彼は個人としても軍人としても私に執着している。少なくとも後者は私にとって重荷だった。 「私は自分の意見は述べたつもりだ。」 努めて優しい口調で、しかし厳しさを含意させたつもりだった。彼にはそれが十分に伝わったらしい。少しだけ長く瞼を下ろして、目を見開く。彼が内心で何かしらの処理を行ったのが分かった。 「お受けします。」 彼は職業軍人が個人に従属するものではないということが理解出来ている。きっと、私が抱いている親心の真似事と、極めて俗っぽい恋人への思いとは通じたことだろう。嫉妬までは分からない。それは伝わっていない方が良いかも知れない。 とにかく、そうして彼は転属を受け入れた。情報部からピエール・ド・シャルティエは姿を消すことになる。私の目が届かないどこか遠くが彼にとっての戦場となるはずだった。 私は安堵を得ていた。彼を少しでも綺麗な世界へ解放できたこと。彼を嫉妬の対象として見なくて済むこと。彼に危険な命令を出す立場から逃れられたこと。そんな色々を込めて、部下を送り出す上官がこうあるべきと私が信じる笑顔を彼に向けた。 「活躍を祈っています。」 「ありがとうございます。」 それは上官と部下との理想的な別れだと言えるだろう。深々と頭を下げる彼の姿は戦争映画のワンシーンのようだった。 彼が顔を上げた時、その目に微かに苦痛の色が見えた。それは、今日見せた唯一のストレートな感情だった。 あれこれと思い悩んで生まれた感情は理屈で押さえ込めるが、シンプルなものは難しい。彼は私を、こんな私を深く愛しているのだから、物理的な距離が出来ることが辛くないはずがない。 勿論、それは私も同じだった。実際に彼を手放すことを考えている段階と、彼が実際に遠くに行ってしまうことが決まった段階とでは、その感情のリアリティには雲泥の差がある。そうか、こういうものを喪失感と呼ぶのだな しかし、どんなに離れることが辛いと思っても、彼も私も理屈で以ってこの転属の正しさを認めている。お互いのために、そうあるべきだと思っている。だから、これは自己目的化した感情でしかない。 私達に必要なのは、心の慰めとしてお互いの感情を交換することだった。こういう時に必要なのはどんな言葉だろう。愛を告げれば良いのだろうか。苦しみを率直に表現すれば良いのだろうか。 「シャルティエ。」 かけるべき言葉が見つからず、彼の名を呼んだ。シンプルに過ぎる感情を表現する言葉は私の語彙になかった。やはりどこまでも情けない男だ。 「…はい。」 先程までとは声の調子が違う応答だった。彼の目には相変わらず苦痛の色があったけれど、表情は少し困ったような笑顔になっていた。それは彼が本当に嬉しい時だけに見せる笑顔だった。 彼は、私が名を呼んだというそれだけの行為から、きちんと私の感情を拾い上げたらしい。彼との別離を私が悲しむのが嬉しいのだ。あんなにも才気に溢れていながら、何とも健気で愚かなことだ。それが私は愛しかった。 あぁ、言葉にしなくとも伝わることはあるのだ。私はそれが彼との間には成立したことに満足を覚えた。だから、口にする言葉は何でも良い。 私にも自然と笑みが浮かんだ。 「気を付けて。」 「はい。」 これが、私と彼との理想的な別れだった。 あとがき もうちょっとイクティノスの感情を整理して書こうかとも思ったんですが、ぐちゃぐちゃしてて良く考えたら矛盾してるくらいの方良いかなぁ、とか思って直しませんでした。 一番自信があるのは題名です。サラ・ブライトマンの「Time to say goodbye」のもじり。Fare thee wellは「さらば」みたいな意味なんですけど「to a fare-thee-well」とすると完璧って意味にもなるんで、この話には良いかなぁと思ったりして。 BACK |