唯一の敗北
「兄貴ー。」
「ん?」
「これ、イクティノスのとこ届けといて。」

きちんと封がしてある大判の封筒。彼の仕事の関係のものだろうか。でも、それを何故ハロルドが?彼は部外者がこういうものを扱うのを喜ばないと思うのだけれど。

「親父が渡し忘れたらしいよ。朝見つかんなかったんだって。」
「困ったものだね。」
「親父も歳かねぇ。」

私が「困った」と言ったのは弟に対してなのだけれど、本人はそれを分かっていて無視している。多分、これが見つからなかったのはハロルドのせいだ。

「どういうつもりなのかな?」
「俺が面倒臭いお遣いを兄貴に押し付けた。以上。」
「そうですか。」

気の利かせ方としては酷い部類に入ると思う。まず、司令と彼との仕事の邪魔をしたこと。次に私への態度が極めて露骨なこと。それでも私は、それをわざわざ叱るよりも、この押し付けがましい気遣いに乗ってしまった方が良いなと思ったので、黙って封筒を受け取った。

「ごゆっくり。」

ハロルドが手を振って笑っていた。やはり露骨だ。









「カーレルです。」
「どうぞ。」

彼は自室で書類のチェックをしていた。もう時刻は夜の20時を回っていたが、夕食も摂っていないのだろう。もう湯気も立っていない手付かずのトレイがテーブルに置かれたままになっていた。

「お仕事中にすみません。」
「いや、大丈夫。何かな?」

顔を上げた彼の笑みは少しだけ固いような気がした。それは私が彼の内心を読み取って視覚を補ったからかもしれないし、本当にそうだったからかもしれない。

「父からこれを届けるようにと。」
「あぁ、そういえば今日中にと言われていました。」

以前は、彼はもっと優しい笑顔を向けてくれていた。冷静沈着、頭脳明晰、地上軍の至宝と言われた人とは思えない、ごく限られた親しい人間にしか向けない笑みだった。

「すまないね。」

それだけ言って、再び彼は顔を下へ向けて書類チェックに戻った。私が彼の部下なら「下がって良い」とでも言うところなのだけれど、私は非軍人だし、子供なので彼はこういう態度になる。

以前はそうではなかった。彼は私にいつまでも部屋にいて良いと言ってくれていたし、部屋の本も好きに読ませてくれた。難しい本について質問した時は喜んで答えてくれたし、私がソファーで寝てしまうと翌朝毛布が掛かっていることもあった。

「ここ、座っても構いませんか?」
「…どうぞ。」

彼は目だけで私の方を数秒見て、それから感情の読めない声でそう言った。出て行けと言われたら出て行くつもりだった。でも、出て行けと言われるまでは出て行くつもりもなかった。

「食事、冷めてしまっていますか?」
「はい、すっかり。」
「今日は忙しくて食べる暇が見つからなかったんです。」

私がソファーに座った途端、彼は仕事の手を止めないまま口を開いた。それはまるで沈黙を嫌がるかのようだった。

彼は私の気持ちに勘付いている。それ以来、親しい上官の養子である私に対する、兄弟のような、或いは友達のような態度はどこかへ行ってしまった。

「ダメですよ。食事はきちんと摂らないと。」
「分かってはいるんだけれどね。」

当たり障りのない会話。周囲から見て私達は何も変わっていないように見えるらしい。最も私の近くにいる弟でさえ、彼と私との変化には気付いていない。だから、こうして私を彼の所へ遣わしたのだ。

「身体は大事にしないと。」
「多くの部下を預かる身だからね。」
「心配する人も多いでしょうし。」
「確かにそうだね。」
「勿論、私も。」

私が一歩踏み込むと、部屋の中の空気が変わった気がした。でも何も起こっていない。先程までと同じく、私は冷めた夕食を眺めているし、彼は熱心に書類に目を通している。

「イクティノスさん。」
「…はい。」

私が名前を呼んで、彼が応えただけ。だけれど、誰が聞いても当たり障りのある遣り取りになっていた。私は彼を見ていたけれど彼は顔を上げなかった。

「私は、貴方が好きなんです。」

そこまではっきりと口にしたのは初めてだった。彼が受け入れてくれるとも思えないけれど、それでも言わずにはいられなかった。言わなければならない状況になってしまった。そういう状況にしてしまった。

「私は君にそれを言わせないようにしていた。」
「分かっていました。」

彼がやっと顔を上げた。少し困ったような、初めて見る表情だった。

「分かっていたのに?」
「こういう定型的な遣り取りをしてみたくなるのも人情でしょう?」
「…そうだね。」
「ええ。」

少しだけ彼が微笑んだ。それが何を意味するのか考えると、身を裂かれるような思いがした。

「私は、お付き合いできません。」
「…はい。」
「これが聞きたかったの?」
「分かりません。」
「そうか。」
「でも、はっきり言ってもらうと気分が違うような気がします。」

勿論、どちらが良いと言うものでもない。99%ありえないと思っているのと、100%ありえないと分かるのと、どちらが幸せかは難しい所だ。

「ありがとうございました。」
「お礼を言われることは、何も。」
「そうですね。」

私は沈んだ顔をするのが悔しかったので、笑みを作って席を立った。ドアまで三歩、極めて自然に、それでも気持ちの中では踏み締めながら歩く。退室前の最後の一言、その前に気付かれないように目一杯彼の部屋の空気を吸い込んだ。

「では、また。」
「ええ。また。」

だって「また」なんてないのだから。













あとがき
突発的に書きたくなったカーイク。カーレル10代半ばくらいのイメージだけど、子供っぽくはないなぁ。まぁ、良いよね。イクティノスに振られるカーレルが書きたかった。
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