かれたらしめむ
戦争の時代の下で彼は、本来の彼ではなかったのではないだろうか、私は時々そう思います。 一つに生命の危機、二つめに飢え―これは身体的な飢えと精神的な飢えとのどちらでもあり、欲求不満と言い換えられるでしょう―そして彼に圧し掛かる責任が彼の平凡を殺していたのではないでしょうか。 彼は10年ほど軍人をやっていて、その間に軍人である彼が自然と装えるくらいに形成されました。 それは、重大な駒として戦場を駆け巡るに必要な一面でした。私の知っている彼は、勇猛なのは勿論ですが、けれど、血生臭さとは縁の無い心優しき男です。寛大であり誠実、そして時折小心を覗かせる人間です。 軍人としての彼は全体、悠然としていたでしょうか。怯えを見せたでしょうか。他人と自分との間に厳しい壁ばかり作る、悲しい不器用すら発揮していました。 私も軍人をしていた身ですから、このような話をしては身も蓋もないのですが、今、穏やかな顔で日々働きに出る彼を見るともっと早くから優しい生活を送っていてほしかったと過去に願望してしまうのです。 教師でも漁師でも、技士か何かだろうと構わないのです、人を傷つけてまで生きねばならない日常が彼を囲んでいなければどんなにか彼は心を痛めなかったでしょう。 そうして誰かのために啜り泣くこともなかったでしょう。 数々の出会い、経験が彼の一部となっている現在から、それらを差し引いた姿を想像するのは難しくただの理想像にしかなりません。それでも、せめて、私のために濡らされる頬が永久に風に包まれていてほしいのです。 「お代わり要るか?」 「あんがと。」 ハロルド・ベルセリオスは目の前で彼のコーヒーカップを再び黒い液体で満たそうとしている大柄な―これは彼との比較の問題であって実際はそれほどでもない―男をぼんやりと眺めていた。 年季が入って少し色褪せた紺色のエプロンが板に付いている。長かった青髪はこの仕事を始めてから切ってしまったから、昔と比べると軽やかな印象を受けた。 「馬子にも衣装ってのは逆か。」 「ん?」 「何でもない。」 それなりの立場にいた人間が馬子の衣装を着たらそれらしくなってしまった、という状態を表す適切な言葉ないものだろうか、とハロルドは思った。勿論、喫茶店の店主という職業を卑しむつもりはないが。 平日の昼下がり。この店はそれなりに流行っていた。店内を見回すと、物書きらしき中年男性、本を読む学生、のんびりとコーヒーを飲む老夫婦、仕事合間の休憩に寄ったと見える会社員と客層も広かった。15席程度の決して大きくはないが、ゆっくりくつろげる良い店だと近所でも評判らしい。 「なあ。」 「ん?」 「あ、やっぱいい。」 ハロルドは元上官にして喫茶店の店主を呼んで、すぐに黙った。軍の制服のまま店を訪ねたことを後悔していた。自分は余りに店の雰囲気から浮いているし、店主と仲の良い様子で話していたら店にまで迷惑がかかるかもしれない。 「何か言いたいことがあるのか?」 ディムロスは意図を汲まず、アイスコーヒー用のグラスを布巾で拭きながら尋ねた。彼が察せないのも無理はない。本来ハロルドはそういう気の遣い方をする方ではないのだ。 「あー。」 自分ながららしくないと思ったのだろう。そう吐き捨ててハロルドが頭を掻いた。今は彼の方が髪が長くなっていた。立派に喫茶店の店主をやっている昔の上官を見て、何だか複雑な気持ちになったのだ。 「これがアンタの本来の姿、ってやつ?」 「どうだろうな。そうなのかもしれないな。」 曖昧な答だったが、まんざらでもなさそうだった。一般的に言って美味い部類に入るはずのコーヒーが妙に不味く感じた。 「俺、来たの何年ぶりだっけ?」 「3年かな?開店以来だろ。」 「そか。」 終戦から5年、ディムロスが現役を退いて4年、店を持って3年。時間というのはなんて速さで進むんだ、とハロルドは思った。彼自身も制服の階級章に星を一つ加えていた。 「あれ、まだやってんだ。」 ハロルドの目がカウンターの一番端に向く。見覚えのあるカップにコーヒーが満ちていた。3年前に見たのと同じ光景だった。店が開いている日には一日も欠かさず用意されるこの一杯を飲む人はいない。カップの持ち主はもうこの世の人ではないからだ。 「ここは私と彼との店だからな。」 「そういうの気に入らねえよ、俺は。」 「お前はそうかもしれないな。」 舌打ち混じりの一言に対して、ディムロスが穏やかに笑うのがハロルドとしてはますます気に入らなかった。 全て今は亡き彼の望んだ通りだった。ディムロスは今、彼を心の奥底の大事な場所に留めつつも、彼を失った悲しみから立ち直り、戦いを離れて平穏に暮らしている。 ディムロスはそれで幸せなのだろうし、きっと兄も満足だろう。それなら何も問題ないし、自分がどうこう言える立場ではないと分かりつつも、ハロルドとしてはその湿っぽさが気に入らなかった。 「あんた、恋人とかいねーの?」 「んー、まだ良いかな。」 「ずっと独りってつもりはないんだ?」 「うん、まぁ、あまり彼を心配させてもね。」 恋人に先立たれた人間としては何とも理想的な姿に見えた。これが自分の上官で天地戦争の英雄でなければ、素直にこれで良かったとハロルドも思えたかもしれない。彼は一度も口にしたことがなかったけれど、軍人としてのディムロス・ティンバーを兄と同じくらい尊敬していたのだ。 「あ、はい。ただいま。」 常連らしい老夫婦が席を立つと、ディムロスは皿洗いの手を止めて駆け寄る。会計を済ませ、二言三言談笑してからドアを開けてやり、彼らを送り出した。客商売が板についた動きだったが、ハロルドは微かな違和感を覚えた。 「どうした?」 「いや、別に。」 適当に誤魔化したが、ハロルドの視線はじっとディムロスの動きを追っていた。食器を下げる。テーブルを拭く。コーヒーを注ぐ。カップを洗う。何の変哲もない作業だが、ハロルドには引っかかった。 元軍人ということを差し引いても喫茶店の店主にしては機敏すぎるように思えたのだ。 全身の筋肉をバランス良く使ったキレの良い動き。10キロ歩いた後でも戦えそうな、優秀な歩兵のそれだった。 もしかしたら、という一縷の望みがハロルドの中に芽生えた。この男はこう見えてとんだ食わせ者かもしれない。 ディムロスがカウンターに戻ろうとするタイミングを見計らって、ハロルドは通路に足を出した。いや、足を払おうとしたと言った方が正しいかもしれない。戯れではなく、本気でディムロスを転ばせようとした。 足が空を切った。ディムロスは何事もないかのように歩を止めないままその足払いを避けた。その余裕のある態度のせいで、彼らを除いた者には何も起こっていないように見えた。ハロルド本人でさえ、信じられないほどだった。 「相変わらず行儀が悪いな。」 彼にしか聞こえないほどの小声だった。静かにコーヒーを楽しめない部下への呆れと、それを可笑しがる余裕が感じられる声だった。 「お代わりですか?今お持ちしますね。」 数秒間、ハロルドは呆然とディムロスを見送っていた。視線の先にいるのは丁寧で愛想の良い喫茶店の店主。日々の平和な暮らしが人生の全てであるかのような雰囲気をまとっているあの人間が自分の攻撃を避けたのだとは信じられなかった。 能ある鷹は爪を隠すというのは事実だったらしい。驚きが落ち着いて、次は思わず笑みが零れた。 にやけ顔を隠そうとカップに手を伸ばす。冷めてしまったコーヒーは全く美味くなかったが、五年前の冬のリエトヴァで飲んだ泥水のようなコーヒーを思い出し、ハロルドはまた笑みが抑えられなかった。 20時。閉店後1時間して、片付けと翌日の仕込みと伝票の整理とを済ませたディムロスは最後に戸締りをして店を出た。 日中はそれほどでもなかったのだが、夜になって少し冷えてきていた。自分の吐く息の白さでそれに気付いたディムロスは、続いてその白い息の向こうに人影があるのにも気付いた。見知った顔だった。 「用があるなら店で待っていても良かったんだぞ。」 「商売の邪魔になっても悪いからな。」 「だったら営業中にちょっかいを出すのはやめてくれ。」 「あっさり避けといて良く言うよな。」 雰囲気が昼に話した時と随分違うことにディムロスは気付いていた。明らかに機嫌が良かったのだ。その理由までは分からなかったが、気まぐれな元部下の機嫌が良いのは喜ぶべきことだと思われた。 「てっきり腑抜けてんのかと思ったよ。」 「一応、予備役の将校だからな。」 「危うく騙されかけた。」 「いや、隠してるつもりはないんだが。」 「じゃ、何だよ?」 一瞬、ディムロスが言葉を選ぶような間を取った。ハロルドの顔色を一度、二度と窺って、それから口を開く。 「あまり、カーレルを心配させるのも、な。」 言ってから自分で苦笑い。ハロルドも今日二度目に聞くこのセリフには思わず笑ってしまった。今一つ共感出来なかった湿っぽさは、馬鹿馬鹿しい微笑ましさに変わっていた。 「死んだカミサンのためにマイホームパパを演じる?」 「ツッコミどころが多いな。」 「要はそういうことだろ?」 「演じている訳じゃない。あれも偽らざる私の一面だよ。」 一時軍務を忘れて、カーレルと二人でいる時のディムロスは平穏で平凡な人間だった。最も近しい人の前で見せる人間性こそが本質だとするのならば、それこそがディムロスの真の姿と言うべきかもしれない。 だが、どちらにせよ、人は多面的な生き物だから、カーレルの前でのディムロスがディムロスの全てではない。軍人としての厳格で勇敢なディムロスも、親しい部下の前で笑っているディムロスも、彼を構成する一要素には変わりない。 「どれが本物、どれが偽物という訳でもないだろう。」 「なるほどね。」 「戦時の厳しい環境で作られた私も私だ。」 「兄貴に躾けられたあんたもあんただしな。」 複雑な表情をするディムロスに大判の茶封筒が差し出された。彼が軍を離れた後で改名された「暫定政府軍」のものだった。この組織についても、地上軍の後継であるとも言えるし、新しい時代のための新しい軍だとも言える。 「ディムロス・ティンバー予備役中将宛。」 「懐かしいな、その呼ばれ方は。中身は?」 「来月、予備役集めての大演習。」 「久々に軍人の顔をすることになりそうだ。」 参加については是非もない。そもそもこれは予備役軍人の義務であるし、そうでなくとも彼は参加するつもりだった。カーレルに見せる側ではない一面の判断で。 「次は兵達に、腑抜けてないとこを見せてやってくれ。」 「それは責任重大だが、」 「だが?」 「カーレルにだけは秘密にしなくてはね。」 そういえば、ヒーローというのは古来から身内にそれと知られずにやるというのが通り相場だったなと思い出し、ハロルド・ベルセリオスは正に自分のヒーローたる男を見上げ、清々しい気持ちで白い息を吐いた。 あとがき アマツカさんの書いたシリアスなリード文(最初の1/3)を腕尽くでひっくり返すお話。笑 今は亡きカーレルの存在はディムロスにとって大きいのだけど、「カーレルがいつでも見ている」というありがちな想定ではなくて、一緒の時とそうでない時を区別して生きているんですね。それって、ちょっと可笑しみがあって、湿っぽくなくて、むしろカーレルが生きている状態に近くて、面白いかなって思います。 |