背中が二つある獣になる遊び

「んー。」
「また長考か。」
「ここが勝負所なんです。」
「そうなのか?」

私と彼との間には、8×8の升目が描かれた緑色のゲーム盤。そこに表裏が白黒で塗り分けられた石が並んでいる。プレイヤーは相手の石を自分の石で挟むことで裏返し、自分の色に変えることが出来る。改めて説明しようとすると難しいが、シンプルなゲームだ。

「ちょっと考えさせて下さい。」
「仕方ないな。」

私が一度席を立とうとして腰を上げると、彼の視線が盤面からこちらへ移った。目が合う。無言の圧力を感じ、私は再度腰を下ろした。彼は黙って盤面に視線を戻す。

「すぐ打ちますから。」
「と言いながら五分は経っているんだが…。」

考え始めるとキリがないのは彼の悪い癖だった。夜に時間が空いた時はこうして彼の部屋でチェスをすることが多かったのだが、あまりに彼が深刻に考えながらやるもので、付き合いきれなくなってしまった。もっと気軽にやれるゲームをと思って用意したのだが、これでもダメらしい。軽く考えてやっても彼なら私など敵ではないと思うのだが。

「んー…よし、ここで。」
「やっと打ったな。じゃあ、私は…。」
「あ、ちょっと待ってください。」

私が石を手に取ろうとした瞬間、彼は打ったばかりの白石を盤上から取り上げた。仕事中の彼は方針が明確で判断も早いのだが、日常生活はそうもいかないらしい。深く物事を考えるところは同じだが、優柔不断でなかなか決心がつかない。

「そうやって長々と考えているうちに部隊が全滅するぞ。」
「仕事のように上手くはいきませんよ。」
「普通は逆じゃないのか?」

ゲームのように仕事は上手くいかない、というのが普通なんじゃないだろうか。いや、そうとも限らないか。

「んー。」
「お茶でも淹れてこようか?」
「いいです。」
「私は少し喉が渇いたんだが。」
「ここをこうすると、こうで…。」
「カーレル?」
「今、大事なとこなんです。」
「いや、お茶を。」
「ちょっと黙ってて下さい。」

彼が少し怒った顔で視線を上げて、私の襟元を掴み引き寄せる。怒ったとは言っても実力行使に出るのは珍しい。思わず目を瞑った。あぁ、なるほど、確かに仕事のように上手くはいかない。仕事中なら何があっても目を瞑ったりはしないのだが。

唇に柔らかいものが当たり、続いて湿った物が私の口の中に入ってきた。目を開ける。彼の顔が近い。漸く、何をされているのか理解した。

「これで我慢してください。」
「いや、あの…。」
「んー。」

確かに多少潤った気がしないでもないが。いや、しかし、水分補給でキスをするというのはいかがなものなのか。彼は私の戸惑いも気にすることなく、長考に戻っている。

私は何も言えずに俯き加減の彼の旋毛を見つめていた。赤ワインと同じ色の髪が頭の頂点から豊かに伸びている。あそこに鼻を押し付けたらどんな匂いがするんだろう、なんて馬鹿なことを思った。自分の思考に狼狽えて咳き込む。彼が急にキスしたせいだ。

彼が姿勢はそのままで、一瞬だけちらりと私の方を窺った。表情は良く見えなかったが、微笑んでいるような気がした。

「そういえば。」

さっきまで10分以上も、ほとんど唸り声を上げるばかりだった彼が、自分から言葉を発した。私が呆けているうちにゲームに進展があったのかと思って盤面を見たが、10分前と全く変わっていなかった。

「あ、そっちはまだですけど。」
「まだなのか。」
「ええ。」

乗り出しかけた身を引っ込めて、ソファーに座り直す。また、彼の旋毛に目が行った。

「このゲームの名前、オセロでしたっけ?」
「そうだな。」
「シェイクスピアの?」

彼は私がその名を知っているのか試すような様子だった。私とてシェイクスピアは知っている。著名な劇作家であること、このゲームと同じ名前の有名な悲劇があることぐらいだが。

「あ、知ってる顔をしている。」
「それぐらい誰でも知っている。失礼な。」

確か、オセロというのは将軍の名だったと思う。黒人でありながら権力者の娘である美しい女性と結ばれたのだったかな。ん?それだと悲劇ではないな。

「あ、知らない顔だ。」
「そうやって何でも読み取ってしまうのは良くない。」
「だって、ディムロスの顔に分からないと書いてあるから。」
「あらすじが思い出せないだけだ。」

カーレルは、私が知らないことを話して聞かせる時の得意気な顔になって話し始める。高い地位と美しい妻を得たオセロは妬まれ陥れられる。策略によって妻の貞操を疑って殺してしまうのだ。自分の過ちに気付いたオセロは後悔の中で自害する。

「なるほど、悲劇だ。」
「つまり、黒がオセロで白は妻ということになるのかな。」
「戦うのはおかしくないか?」
「そうですね。」

そういえば、いつの間にか彼はゲーム盤を睨みつけるのを止めていた。私の目には彼の旋毛ではなく笑顔が映っている。うん、やはりこちらの方が良い。

「私はただ、あなたのお嬢さんとあの黒人が、背中がふたつある獣になっていると、お知らせに上がっただけです。」

カーレルが台詞を諳んじた。なるほど、こんな洒落た誘い方も珍しい。私は腰を上げた。今回、彼は止めなかった。正面から隣に場所を移した。彼が上機嫌な顔で二度目のキスをしてきた。今回は優しかった。

「喉が乾いていたのか?」
「あれは口実です。」
「はっきり言い切るんだな。」
「難しいことを考えている時、ふと性的欲求が高まったりしませんか?」
「例えば、オセロの次の手で迷っている時?」
「或いは、前線の指揮官から無理な物資の要請があって遣り繰りに困っている時。」

その時のことは何度も謝って許してもらったと思うのだけれど、どうもまだ彼は根に持っているらしい。いや、解決の仕方が良くなかったのもあるかもしれないが。

一瞬、この前のことを思い出しかけたが、私にとっては先程から興味を抱いていた彼の旋毛に鼻を押し付けることの方が重要で、求められるまま抱き締めて匂いを吸い込んだ。恥ずかしそうに彼が身を捩る。

「何してるんですか。」
「長く待たされたせいで不埒なことを考えてしまった。」
「私も不埒なことを考えていました。」
「オセロの手ではなく?」
「それもですけど。」

私とこうして抱き合うためのダシにされたシェイクスピアも気の毒だ。いや、ラブストーリーにとっては、そうして俗っぽく利用されることは面目躍如かも知れない。

彼の手が私の頬を愛おしげに撫でた。彼は地位のある人の子だし、私は将軍だし、オセロに親近感を覚えないこともないが幸いにして私と彼とは肌の色が同じだし、差し当たり彼とこうしていることによって誰かの妬みを買っていることはないようだ。比較の問題ではあるが幸せと言って良い。

「あっ。」

何となく数えていたキスの回数を忘れてしまって、お互いがそろそろ服を着ていることがもどかしく感じられるようになった頃、彼が唐突に声を上げた。勿論、身体的な刺激から来る喘ぎ声ではない。

「どうした?」
「あっ…。」

今度のは喘ぎ声だった。シャツの肌蹴た隙間から彼の首元に唇を落としたせいだった。話を聞くつもりはあるが、その為に手を止める気はなかった。

「良い手が浮かんだんです。」
「やっと?」
「ええ。それで思わず。」

彼は恥ずかしそうに笑った。あまりにムードのない自分に呆れたらしい。彼の表情を見て、言葉を聞きながらも私の唇は鎖骨を経て首を遡り耳へと近づいていく。

「ゲームに戻るか?」

彼がイエスと言うとは思わなかったが、どんな反応があるか楽しみで耳元に囁いた。擽ったそうに私の腕の中で彼が動く。

「それも悪くないですけど。」
「うん。」
「しばらくしたら、もっと良い手が浮かぶ気がして。」

その見解には同意しかねる部分もあったが、結論には賛成だったから、私は彼が右手に握ったままだった表裏色違いの石を取り上げて、彼に触れるのと同じくらいの優しさで、そっとテーブルの上に置いた。

黒が上になり白が下になった石が、ソファーの上で重なり合う私達のようで、少し可笑しかった。















あとがき
シェイクスピアの芝居をやってるので、ちょっとシェイクスピアを使ってみました。背中が二つある獣になるってのは性交の隠喩なんですが、オセロゲームの石も似てるなぁとか思ったりして、そういう話。
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