探偵ごっこ

ある一戸建ての借家の玄関を開けると長くない廊下がある。左手の居間に続く扉の前を素通りし、逆側の階段を上がると小さなホールにいくつかの扉。イクティノス・マイナードはそのうちの一つのドアノブに手をかけていた。

そこは彼の部屋ではなかったが、彼はノックをせずにドアを開けた。部屋に誰もいないと思ったわけではないし、彼は常識を持っている人間であるから、ドアをノックせずに開ける主義という訳でもない。

つまり、彼のこの行動は例外ということになる。「ノックをされても気付かないのだから、無駄なことをせずに勝手に入れ」とイクティノスは部屋の住人に言われているのだ。付け加えるなら部屋の主にとっても、その措置は例外的だったのだが、そのことがわざわざ説明されることはない。

「ハロルド。」
「・・・・・。」
「聞いていますか?」
「・・・・・。」

椅子を前後逆にして座り、背もたれに顎を乗せるという、だらしない姿勢で本を読んでいた部屋の住人ハロルド・ベルセリオスは億劫そうに顔を上げた。

イクティノスは、彼の顔を見るのが随分久々な気がしていた。考えてみると、仕事が忙しく二日家に帰っていなかったのだということを思い出した。睡眠不足かもしれない。

ハロルドが手にしていたのは小説の文庫本らしかった。イクティノスは、彼が小説を読むことに強い違和感を覚えるのだが、その一方で日々手荒に扱われるせいでボロボロになった表紙を見ると妙に安心もした。

「タイピスト、クビにした方が良いぞ。」

ハロルド・ベルセリオスの第一声は何の脈絡もないものだった。だが意味のない発言ではない。

「今、なんと?」
「タイピストをクビにしろ。」
「どうしてでしょう?」
「・・・・。」

イクティノスが思案顔で尋ねると、ハロルドは少し苛立った様子で溜息をついた。彼は、物事をわざわざ説明することを嫌う。世の中の大抵のことは、彼にとって「1+1=2なのだから2+1=3」ぐらいの容易な論理であり、その詳細を解説するのは不快極まりないのだ。

ただ、この場合は幾らか他の要素も加わっている。イクティノスはハロルドのそうした面を分かっていながら説明させようとしており、どこかそれを楽しんでいる風さえある。したがって、苛立ちも増す。

「二日間、職場に詰めたままだった割にスーツに皺が寄っていない。誰かがシャワーか仮眠の間にアイロンでもかけているんだろう。今まではそんなことはなかったから、最近雇われたタイピストの仕業だ。だが、あんたは業務外の仕事を部下にさせる人間じゃない。タイピストは自発的に、しかも自分の仕事をきっちりこなした上であんたの世話を焼いてる。相当優秀で気が利く奴だ。あんたの職場のタイピストの給料は相場に比べて高くない。にも関わらず、それだけの奴が来るってことは、働いて給料を稼ぐ以外に目的があると考えた方が良い。結論、タイピストはどっかの工作員。」

イクティノスは興味深そうに頷きながら解説に耳を傾けた。彼は賢く、勇敢かつ冷静で常識的という万能な人間だったが、それに加えて人の話を聞く能力に長けていた。ゆえに彼は、即座にではなく、解説を咀嚼するだけの間を取ってから一つ質問をした。

「他の可能性は?」
「ない。内部のスパイ探しのために雇われたんだとしたら目立ちすぎる。あんたはそこまで馬鹿じゃ・・・」

イクティノスの質問が終わる前に返答を始めたハロルドは、途中で絶望したように言葉を切り、更に苛立った表情で口を開いた。

「あんたの上司、何とかしろよ。無能すぎて話にならない。」

正答に辿り着いたというのに、ハロルド・ベルセリオスは全く不機嫌だった。彼は自分の半分程度は賢いと認めているイクティノス・マイナードが箸にも棒にも掛からない上司の下で働いているのが全く理解出来なかった。

「本来の目的はともかく、職場の環境は良くなっていますよ。貴方の言う通り気が利くお嬢さんですから。」
「ったく興醒めだ。くだらない。」

ハロルドは荒っぽくベッドに身を投げだした。手にしていた本は放り出され、イクティノスの足元近くに落ちた。それを取り上げ、本以外の様々な物が詰め込まれている本棚に、どうにか収めてやる。前述の通り表紙はボロボロだったが、それが著名な探偵小説であることは分かった。

どちらかと言えば表情に乏しい彼の口角が微かに上がった。先程の高説はそういうことだったのか。案外、影響されやすいところがある。ハロルドのこうした子供っぽいところが彼は嫌いではなかった。

「あぁ、それで本題なんですが。」
「まだなんかあんの?」

彼が文脈を気せずに発言するのは、そもそも文脈が記憶に残らないからではないだろうか。イクティノスは目の前の奇妙な人間をそのように分析した。

「明日は時間がありますか?」
「暇。あんた仕事ないのか。」
「ええ、一区切りついたので、こうして帰ってきています。」

先程までの推理より遥かに易しい問題だとイクティノスには思えたが、ハロルドの関心は既に探偵遊びにはないようだった。彼はとにかく飽きっぽい性格であり、イクティノスが知る限り、彼が飽きなかったことは軍事と科学ぐらいであった。実際は、この二つに加えてイクティノス自身が含まれているのだが、そのことに本人は気付いていない。

「時間があるなら出かけませんか?」
「どこに?」
「少し贅沢な昼食でも。」
「良いけどさ。」

ハロルドは身体を起こした。先程の観察する目とは違う視線がイクティノスの上から下までをなぞる。前日に出かける予定を立てるようなことは、二人の習慣にはない。

ハロルドにとって予定通りに行動することは重視されないし、イクティノスもそれが分かっているから、当日ハロルドが暇そうにしていれば連れ出すというのが通例になっていた。

「何かあったの?」
「先程お話したタイピストのお嬢さんですよ。」
「は?」
「貴方のことを話題に出したら、会ってみたいと言い出したので。」

二度、三度と瞬きをし、ハロルドは思案顔になった。発言の内容と意図について、彼にしては珍しく長考している。その様子をイクティノスは、どうしてだか分からない顔で見ていた。

「何か都合が悪いですか?」
「そいつとどんな会話したんだよ。」
「え?」
「良いから。」

イクティノスは戸惑いながらも、若い女性と仕事合間の雑談に何を話したものか困ったこと、風変わりな同居人について話したところ会話が弾んだこと、彼女が「会ってみたい」と言い出し日程を提示されてしまったこと、を話した。その間、ハロルドは目を開けるのも面倒臭そうな呆れ顔をしていた。

「俺の都合が悪かったらどうする気だったんだ?」
「店の予約はしてしまったので、貴方が来られなくても昼食は摂ろう、と彼女が。」

ハロルド・ベルセリオスは自らの明晰な頭脳をフル回転させる必要もなく、そのタイピストの女性の関心が自分でないことを見抜いていたし、イクティノスのその発言で更にその確信を強めた。その女性はイクティノスの出す話題が何であっても、一緒に出かける口実を作っただろう。

「やっぱクビにした方が良いんじゃねえか?」
「今、なんと?」
「なんでもねーよ」

もしかしたら、風変わりな同居人が面倒臭がって来ない可能性が高いということまで考えていたかもしれない。流石は暫定政府安全保障省。適材適所かは別問題として、どうやら頭の切れる女らしい。ハロルドは敵部隊の指揮官の意図を読む時と同じ顔になっていた。

「行く。」
「はい?」
「明日、行く。その女に興味がある。」
「そうですか。」

決然と言い放つハロルドが妙にやる気を出しているのが何故なのか、イクティノスには全く理解が出来なかったが、取り敢えず、部下との約束に義理を欠かずに済みそうだった。







あとがき
戦後、同棲してるハロルドとイクティノス。ハロイクのイクティノスは恋愛に疎い設定にしておいたんですが、それが今回活きてきました。

シャーロック・ホームズに影響を受けてるのは、ハロルドじゃなくて僕ですね。この前、シャーロックのシーズン1を見ました。ベネディクト・カンバーバッチの性格悪そうなのと、マーティン・フリーマンの能力ある凡人ぶりがとても良い。
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