Lの音




カレリアに来たのは1年ぶりだった。正直、あまり良い思い出はない。天地戦争中にこの地を踏むことはなかったが―何と言っても大陸の北端なのだから―終戦後は何かと関わる機会がある場所だった。


レンズ景気の頃に建てられた古いホテルから街を臨むと、未だに生々しい傷跡が残っていた。倒壊している建物も少なくなく、難民キャンプも遠くに見えた。寒さの厳しいカレリアでキャンプ暮らしはさぞかし辛いことだろう。


天地戦争終結後、最大の武力衝突と言うべきカレリア内戦があったのが3年前。カレリア人ではない私達には殆ど分からない人種と言葉の差からカレリアの人々は内戦を始めてしまった。


「カレン人とカレヤラ人だったか?」


窓から室内に視線を戻しながら私は尋ねた。反応は無い。彼は、壁一面に広く取られた窓を見まいとするように部屋の隅で本を読んでいる。彼が小説を読むようになったというのは聞いていたが、実際に文庫本を手にしている姿はなかなか衝撃的だった。


「ハロルド。」
「・・・・・。」


彼は呼びかけに言葉では応えず、代わりに本を畳んで一つ溜息を吐いた。読んでいた本の表紙が見えた。ヘロメ・セイリンゲルの”フィッシャー・オン・ザ・アイス”だった。確か、有名な芸術家を殺した青年が自首する前に読んでいたというので最近話題になっている本のはずだ。


「カレン語とカレヤラ語はLの発音が違う。」


突然彼は口を開いた。彼は会話能力に不足がある訳ではないが、しばしば面倒臭がってそれを放棄する。ただ、そういう時の一言は下らない10分の会話よりも内容と含意のある言葉だと私は知っている。


「・・・・それは3年前に知ったのか?」
「両方の言葉でKill youを言われたからな、随分。」


彼は3年前に始まり、半年前に一応の沈静化が図られたカレリア内戦に、暫定政府軍から派遣された現場指揮官の一人だった。彼と彼の連隊は停戦勧告に従わない武装勢力を次々と制圧し、輝かしい戦果に彩られた第一師団の歴史に新しい星を加えた。


「特に子供は発音の癖が強い。」


彼は会話の中で何を言うべきか詰まった人間が「あ、もうこんな時間か」と言うような気軽さでそれを口にした。武装勢力を構成する民兵の多くが未成年、平均年齢は18.6歳だったと言うことを彼は身を以て知っていた。


もう3年も経つと言うのに、私は掛けるべき言葉を知らなかった。そんな私を気にする様子もなく、彼は再び読書に戻ろうとしたが急に本を閉じたためどこから読むのか分からなくなってしまったようだった。ペラペラとページを繰って探していたものの遂に諦めたのか、不満げに鼻を鳴らして本を放りだした。


「そういう顔されると困るんだけど。」


初めて、彼は私を見た。赤紫の瞳には私の情けない顔が映っている。言葉には先程よりも余程多くの感情が込められていた。


「あんたに褒められると気が晴れるんだ。」
「今でも?」
「いつでも。どこでも。」


その答えが少し面白くて、少し笑った。彼も表情を緩めてくれたから、何だか更にもう少し笑えた。


「お前は良くやってくれてるよ。」
「それは今?」
「以前から今現在まで。」
「これ位で機嫌良くなるのは正直悔しいな。」


彼は言葉通り機嫌良さそうに、それを抑えようとわざと眉間に皺を寄せて頭を掻いた。彼は掴み所のない人間だが、根底に素直さを持っている。天性のものなのか育ての親が良かったのかは分からないが、私は近しい年長者としてその部分がとても気に入っている。


「だが、無理に来なくても良かったんだぞ。」


今度はごく軽い調子で話を切り出せた。現地の暫定政府軍の視察とは言え、勿論治安の面では危険が伴うし、カレリアに慣れている彼が随行してくれるのはありがたくはあった。ただ、彼がこの地に良い思い出を持っていないことは確実だったので気が引けたのだ。


「だからさー、そういうのが良くないんだって。」


呆れつつ膨れるという器用な表情を作って彼は椅子から立って私の傍まで歩いてきた。先程私がそうしていたように、彼も窓から眼下に広がる街並みを眺めた。


「内戦終わったなんて思ってんのはここで俺達だけだぜ。」
「ああ。知っている。」


私達がこの町に到着する一週間前、暫定政府と関係が深かったカレリア共和国の外務官僚が自宅で殺されていた。カレン人勢力とカレヤラ人勢力は互いに罪を擦り付けあっている。下手をするとまた武力衝突に近いことがあるかもしれない。


「民兵がホテル囲んだり、爆弾しかけたりするかもしれねーだろ。」


窓に汚れを見つけたハロルドは息を吐きかけて白く曇らせると、服の袖でゴシゴシと擦った。擦った部分が想定外に綺麗になり、周りに比べて浮いてしまっていた。当然、想定外の汚れに彼の袖はすっかり黒くなっていた。


「ったく、碌なとこじゃねーな。」


彼は自分の袖を眺めて舌打ちをし、窓掃除を諦めた。代わりに丸く一部分だけ妙に綺麗になった窓から再び外を見詰め始めた。


「私を案じて来てくれた訳か。」
「ま、そういうこと。」
「ノリスは何て言ってた?」
「『あん?道路工事か?』だとさ。」


失礼だとは思ったが、私はつい噴き出してしまった。前々からノリスは彼の仕事を土木作業だと言ってからかうのだが、こんな場面でもそれは適用されるものらしい。普通ならもっと彼に気を使ってしまいそうなものだが、それが信頼の為せる技だろうか。


「あんた、たまに失礼だよな。」
「いや、すまない。感謝してるんだ、本当に。」
「あそ。どーも。」


景色に飽きたのか、彼はまた椅子に戻った。また本を読むのかと思ったら、背もたれに顎を乗せる形に腰掛けて私の方を見る。


「あんたぐらいだぜ、俺が従ってやろうなんて思うの。」
「知っている。」
「ふーん。」
「お前のことは良く知っているつもりだ。」
「・・・・。」
「私は良い部下を持ったよ。」


私は彼から視線を外し、彼が作った汚れの穴から外を見た。より明瞭に悲惨な街の様子が見える。冷たい雨が降り始めていた。暴動が起こる危険は減ったかもしれないが十分な住居がない人々にとってはより厳しい環境になるだろう。


「何でも知ってるつもりかもしれないけどさ。」


彼の声は僅かに堅さがあった。驚いて振り返ろうとすると、鋭く「動くな」と言われた。何だか逆らえない物を感じて、そのまま外の景色を見続ける。ノリスの言う通り、ここから見える道路は舗装し直した方が良さそうなものが大半だった。


「俺があんたのこと好きなのは知らないだろ。」
「・・・・・!?」
「こっち見たら殺す。」


急なことで頭が整理出来ず、とにかく言われた通り直立不動のまま彼の言葉を反芻していた。


好きって言われた気がする。え、好きって何だ?好きって・・・好き、だよな?でも普通は好きって言った相手に殺すとか言わない気がする。まぁ、彼はあんまり普通って枠が当てはまる人ではないのだけれど。


「嘘だよ。」
「は?」
「あ、殺すって話の方。」
「・・・はぁ。」
「好きなのはホント。」


じゃあ、振り向いても良いのだろうかと思ったけれど、どうもまずいことになりそうな気がしたから自重することにした。さて二度目を聞かされてしまったけれど、これはつまり・・・。


「案外落ち着いてんね。ばれてた?」
「いや、正直頭が混乱してる。」
「ひいたりしない訳?」
「周囲にそれなりにいるからな、そういう趣味の人間は。」
「俺がアンタの制服剥ぎ取って犯したいとか思ってても?」


そういうリアルな表現は止めてほしい。今はそこまで頭が働かない。


「流石にびびった?」
「多少は。」
「多少かよ。あ、こっち向いて良いよ。」


ほんの数分でどっと疲れて、勢い良く椅子に腰掛けた。漸く彼の顔を見た訳だけれど、爆弾発言をした割に普段と変わらない様子で何だか拍子抜けした。まぁ、いつも爆弾発言をしていると言えばその通りなのだけれど。


「本気なのか?」
「あ、犯したいって話?」
「・・・その前。」
「ん?前?」
「・・・・好き、とか。」


口ごもると彼が噴出した。こちらは混乱しているなりに真面目に受け止めていると言うのに失礼な奴だ。気持ちが表情に出たのか、彼は「あぁ、悪い悪い」と笑いながら気の入らない謝り方をした。


「照れんなよ、可愛いな。」
「・・・・・本気なのか?」
「本気だったら何?」


下から覗き込むようにして彼が私の顔を見詰めた。口元だけ笑っているが目は真剣そのものに思えた。そうやって、へらへらしている割に要所要所は真面目な奴だから・・・。


「良く、考えるよ。」


付き合いが長いから、彼が冗談や何かで言っているのではないことが良く分かってしまった。それでもヘラヘラしているのは、多分、何か拒まれた時の保険だったのではないだろうか。頭が良い癖に、この辺りの発想は中高生並だ。


真剣だと言うことが分かったなら、私も真剣にならざるを得ない。良く、考えよう。今すぐには処理しきれない部分があるけれど。


「ほんと、あんたお人好しだよな。」


照れたのか、顔を背けて眉間に皺を寄せている。好きかどうかは別として、可愛げはあると思う。身勝手な態度も何を考えているか分からない所も、案外周りを気にかけているところも。あと、驚くほど分かりやすくて素直な面をたまに見せるところも。


「部屋、戻る。」


彼はそのまま席を立って、顔をこちらに見せないまま地面を噛むようにしてドアの方へ歩いて行く。まるで怒っているようだったが、そうでないことは良く分かっていた。


「ハロルド。」
「・・・何だよ。」
「ちゃんと考えるからな。」


舌打ち一回と「好きにしろ」の言葉を残し、バタンと音を立ててドアが閉まった。やっぱり可愛いところがあるな、と思って思わず頬が緩んだ。


私は席を立って、彼が作った窓の「穴」を見た。その穴の向こうの景色ではなく、その穴をぼんやり見つめていた。思ったより前向きに考えそうな自分に驚きつつ。





Lの発音が違うということはLoveの発音も違うのだろうか。彼が覚えた二つの言葉でそれを聞いてみたいと思った。











あとがき
ハロディムです。普段より、ハロルドの可愛さ増量でお送りしました。






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