小局
珍しく彼は夜更けまで起きていた。
燃料節約の徹底を義務付けられていたから、本当はいけない。
しかし何か理由がある訳でもなく、目が冴えてしまっていたのだ。
時間潰しにと、彼は机へ向かったが長くは続かなかった。
週明けに参謀本部へ提出する報告書を書いていたが、すぐに済んでしまったのだ。
どうせ泥沼の前線へ掛かり切りなのだから、些細な事は気にしまい。
そう彼は高を括って、特に異常は無いと報告書に書き記した。
書き記して万年筆を置いて、背凭れに体を預ける。
低い天井のシミを何気なく数えていると、些細でない事があったのを思い出した。
と言うよりも、報告すべき事件だと言う事を失念していたのだ。
引き出しを開けて使い回しの封筒を取り出す。
中には、真新しい死亡診断書が一枚。
彼の、数多の部下の一人の死を伝える文書。
軍医は前線に取られてしまっているから、町医者に頼んだ物だった。
鋭利な刃物で頸を一突き、と書いてあった。
説明されるまでもない、現に彼は現場を見ていた。
・・・・
今日のような静かな夜だった。
突然にドアが開く気配に彼は目覚めた。
顔を上げると、年端も行かない青年が其処に居た。
手には細身のナイフを握り締めて立っていた。
彼が起きたのに気付き、青年は逃げた。
反射的に追って、彼は廊下に出る。
彼が廊下に出たのとほぼ同時だっただろう。
叫び声と共に、彼の部下が床に崩れるように倒れた。
傍らには、血みどろの短刀を持った青年。
何故か青年は彼を振り返り、遠目から見詰めていた。
ぼんやりと彼も見詰め返している内に、青年は姿を消した。
その翌日も、その翌日も青年は現れた。
彼が起きる度に逃げて、姿を眩ましてしまう。
ただ、毎回毎回じっと彼を見詰めてから青年は姿を消す。
四日目に、彼は眠ったふりする事にした。
ドアが開いても、青年が入ってきても眠ったまま。
ひたひたと近づく足音で、彼は青年との距離を測っていた。
青年の足が止まったのが分かった。
そして、大きく息を吐くのが聞こえた。
彼はその隙を逃さず、両腕を取り押さえて青年を捕えた。
歳は17,8だろうか、貧しい身形をしていた。
自分の末路を覚悟したのだろうか、抵抗もせずに目を伏せていた。
きっと「南」の工作員なのだろう、と彼は確信した。
厳しい訓練の跡だろうか、青年の腕には痛ましい傷跡が残っていた。
彼は思わず傷跡から目を逸らした。
廊下で足音がした。
騒ぎを聞きつけて夜間警備の兵士が来たのだ。
一人死亡者を出しているから、彼らも殺気だっている。
彼は、一瞬思案した後青年の腕を掴んで窓を開けた。
その部屋は二階で、生温い風か入ってきた。
黙ったまま、彼は青年を外に放り投げた。
・・・・
彼は死亡診断書を封筒に戻した。
青年を窓から投げたのが昨日の事。
今日現れないのなら、懲りたのかそれとも死んだのか。
どちらにしても、彼には関係が無い事だった。
「上」では貧困層の子弟を訓練して工作員にするらしい。
そう、彼は同僚からの話で聞いていた。
作戦に成功しても失敗しても、殆んどは帰ってこないらしい。
刺し違えるか、逃げ損なって死ぬか、末路のパターンは多くない。
そして工作員が戦死すると、十分な食料が遺族に支給されるのだそうだ。
「上」は怖いな、と同僚が言っていたのを彼は思い出していた。
彼は、もう一度死亡診断書を取り出した。
死んだ兵士は田舎の漁師の次彼で19歳。
第八期の赤紙が来て半年前に入隊。
月間精勤表彰二回、三等士長。
遺骨は今日の昼に実家へ送られたばかりだった。
兵士の給料三か月分に相当する見舞金も一緒に付けて。
最近では田舎でも食料が足りないらしい。
兵士の遺族は、息子の見舞金で闇米を買うのだろう、と彼は思った。
溜息を一つ吐いて、彼は死亡診断書を再度封筒に戻した。
その封筒を引き出しに放り込み、振り返る。
青年が居た。
粗末な服が濡れているのに気付いた。
いつの間にか、外は雨らしい。
薄いガラスの窓を大粒の雨が叩く音がした。
彼は青年に視線を戻す。
何故か今日は丸腰だった。
そして、何をするでもなく彼を見詰めていた。
その視線から逃れるように、彼はベッドに腰掛けた。
青年は何も言わないまま、机の上に置かれた彼の銃を手に取る。
そして、それを彼に差し出した。
彼はそれに応じないで、軽く見上げる格好で青年を見ていた。
雨の音だけが響き、二人は無言で対峙していた。
どれくらいの時間が経ったのだろうか。
彼には、数時間はゆうに過ぎたように感じられた。
沈黙は突然破られた。
外で兵士がドアをノックしている。
一瞬、彼は視線をドアに移したがすぐに戻した。
返事もせずに、ただ雨音とノックの音を聞いていた。
彼の名前が外で呼ばれている。
鍵は掛けていない、やがて痺れを切らして開けるだろう。
そんな事を思いながら、彼は微動だにしない青年を見ていた。
勢い良くドアが開いた。
警備の兵士が二名、抜刀して駆け込んできた。
兵士たちは、銃を持った青年と彼とを交互に見た。
恐らく、彼らに理解できる状況ではあるまい。
説明を求めるような視線で、兵士たちは彼を見詰めていた。
彼は困惑する兵士たちを眺めつつベッドから腰を上げた。
差し出された銃を手に取り、もう一度青年を見詰めた。
青年は相変わらず、静かに佇み雨音に耳を傾けていた。
・・・・
証言によれば、銃声は二発。
一発目は片方の兵士の額を貫通、致命傷となった。
もう一発はもう片方の兵士の左胸に当たり、これも致命傷。
凶器の銃は彼のもので、引鉄の指紋も彼の指紋だった。
彼はその夜を境に姿を消した。
侵入者の青年と一緒だったのかどうかは定かではない。
二晩降り続いた雨の所為で、痕跡は跡形なく消されていた。
彼の水死体が見つかったのは、雨が止んだ日のそのまた翌日であった。
軍の宿営地の近くの川岸に打ち上げられていたらしい。
銃殺されたと思われる若い男の死体を抱えていたそうだ。
ある人は、増水した川に浚われたのだろうと推測した。
またある人の言うには、入水自殺を図ったのだとも。
事の真偽は分からない。
ただ、暫く飢えずに済んだ家族があったのは確かである。
あとがき
文章の雰囲気は司馬遼太郎式短編の影響かと。
描かない部分を皆さんがどれだけ想像してくれるかなぁー、って話で。
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