続・電車ごっこ 或いは「運転手には帰りを待つ家族がいる」 ダーラナ北部、多くの企業がリエトヴァでの拠点を構える商業都市ヴァザ。数年後にはポーレ公国が成立し、その首都となることがつい最近決まったばかりのこの都市の外れには暫定政府の機関が密集している地域がある。 僕が三年前まで働いていた地上軍中央司令部があったのは、ここに比べるとやや田舎の方だったから、市営バスと鉄道が充実しているここの環境は今ひとつ慣れない。 ただ、今日のような状況では交通の便の良さがありがたかった。緊急の電話が入って官舎を飛び出して、車を飛ばして彼を迎えに行っても30分とかからず彼を職場へ送り届けることが出来る。彼の部下達も同様で、彼が着く頃には主要な者は全員が揃っているはずだった。 「何箇所かな?」 「四都市で大隊が3、連隊が1です。」 「案外少ないね。」 「潜入の連中も頑張ったようですから。」 地上軍が暫定政府軍になり、情報部も昔のままと言うわけにはいかなくなった。戦闘部隊は分離され、諜報機能は暫定政府安全保障省の一部門に姿を変えた。同僚にも軍を離れた者、政府の他の部門や軍の他の部隊へ移った者など様々だったけれど、唯一全く変わらないのが、トップに彼、イクティノス・マイナードがいて、僕がその副官として存在しているということだった。 「昔なら事前に処分できた者だけれどね。」 「前線送りですか?」 「或いは、反地上軍のゲリラによるテロ。」 「訓練中の事故。」 「天上側による暗殺。」 「今では出来ない手ばかりですね。」 「全く。手足を縛られて働いている気分だ。」 バックミラー越しに目が合う。お互い、戦中には考えもしなかったスーツ姿での出勤。扱う内容が物騒なのは変わらないが、使える手段は随分と変わった。 「戦中とは違いますからね、何もかも。」 「君が言うと含蓄がある。」 クーデタ計画を僕達が察知したのは半年前。カレリア内戦に派遣された部隊が現地で活動する革命家の思想に触れたのが良くなかったのか、或いは天地戦争中に露骨な反天上教育・反北部教育が行われたのが良くなかったのか、中堅将校の一部には現在の政府が採用している旧天上軍占領地住民への宥和政策を喜ばない者がいるらしい。 「軍の動きは?」 「偶然近隣地域で訓練中だった部隊が既に行動を起こしています。」 「何ともありがたい偶然、だね。」 偶然は都合良く起こることになっている。勿論、情報の流れを統べる僕達にとって。澄ました顔で既に行動を開始している部隊とその指揮官の名前を読み上げると、彼は苦笑いを浮かべた。旧地上軍のリトラー派、それも第一師団に関係が深い者ばかりだった。 「この人選は誰が?」 「ディムロス中将とノリス大佐に任せました。」 「良く自分で出たがらなかったな。」 「大人になったんでしょう。」 車を止める。この地域を支配した貴族が個人的に建設した美術館の遺構を利用しているという古めかしい建物が目に入る。暫定政府安全保障省の大きな表札。足早に中へ入り、廊下を進む。他の部署の人間は僕達を見ると関わり合いを避けるように目を逸らし、道を譲った。まぁ、諜報組織とは概してそういうものだから仕方が無い。 長官官房五課。最も奥まった最も広い部屋が僕達の今の職場だった。安全保障省の人員と予算の3割を得て、手足を縛られながら昔と変わらない仕事をしている。課長である彼の権限も、実質的には長官に次ぐナンバー2だった。 「クイビシェフが占領状態。他は今一つ迅速さを欠いているようです。」 「あそこは・・・438独立大隊だったかな?」 「大隊長のスレイマン少佐は有能な人物だそうです。」 「市街戦も長期化も避けたいけれど、ね。」 クーデタが長引くと連鎖的に計画に加わる者が出る。足並みが揃っていない他の部隊も簡単には諦めなくなる。そうなると、都市を包囲しての持久戦か、或いは力押しの市街戦か。暫定政府への信用が十分でない今の時期には避けたい事態だった。 「潜入班は?」 「通信が途絶しています。拘束されたかもしれません。」 「なるほど。」 革張りの豪華なチェアに身体を預ける彼は少し居心地が悪そうな顔をした。所作の一つ一つに貴族的なものを持っている割に、こういう調度品との相性が悪いのを、僕を含めて長く仕えている部下達は良く知っていた。実用主義が度を過ぎると高級品へのアレルギーになるらしい。一定以上のランクの公務員はこういうものに座る規定らしいから、彼は仕方なく座っているようだけれど。 「クイビシェフから入電しました。」 情報部時代からの同僚が電文を挟んだクリップボードを抱えて部屋に飛び込んできた。僕の耳は、同僚の口から「少将」という言葉が零れそうになっていたのをしっかり聞き取っていた。環境に慣れないのは彼らも同じらしい。 「連絡が取れましたか?」 「はい。ただうちの潜入班ではないようで。」 「と言うと?」 「意味が取れません。特殊な暗号かも。」 何となく、嫌な予感と期待感が混在した気持ちでクリップボードを受け取った。そういえば、いつも予測不可能なアクシデントを発生させる係の人が二人、今日の件に関わっていなかったじゃないか。冗談のような短い一文。ただ、あまりに期待通りすぎて誤解のしようはなかった。 「これは、何というか、私信ですね。」 「私に?」 「ええ、お読みになればすぐお分かりになると思います。」 そこには【藪医者ヲ従ヘ工事現場ノ往診ヲセントス 続報待テ】の文字。なるほど、これは私信に違いない。ここでは僕と彼にしか分からないだろう、ある意味で最も優れた暗号。 仕事には私情を全く挟まない尊敬すべき僕達の上官の表情から一瞬血の気が引く。その心理的な同様を殆んど表面に出さないところには尊敬の念と共に、そこまでしなくてもとの思いも抱いてしまう。まぁ、少将、あんな人と付き合い始めたのが運の尽きですよ。 そういえばハロルド中佐、工事とか言われるのは嫌だったんじゃないんですか? 「済んだ。移動するぞ。」 ハロルド曰く、取り敢えず一番信用出来て無理が利くところ、への報告が済んだらしい。市の出張所にちょっとした通信設備があったのは幸運だった。ただ、ここから電波を出したことはすでに敵に知られただろうから、増援が来る前に逃げないといけなくなった訳だけれど。 「彼氏に報告?」 「あいつにそれ言ってみ?ぜってー怒られるから。」 「でしょうねえ。」 方針としては、クーデタ側の戦力の配置やら装備やらを調べて、弱い部分を報告して、多分こっちに向かっているだろう部隊を支援する、と言うことになっている。まぁ、工兵中佐と予備役軍医中佐の二人で方針もへったくれもないのだけれど。 「一時間でざっと情報を集める。」 「随分せっかちね。」 「多分、それぐらいで味方が来る。」 「あんた、結構友達信頼する方よね。」 クーデタの情報くらいは事前にイクティノス少将が掴んでるだろう、と予想して報告したり、そっから情報を得てディムロス中将やらノリス大佐やらは既に対策を立ててるだろうと予想して行動する。これが信頼でなくて何だろう。 「いつもそうやって上司に茶々入れて仕事してんの?」 「あんたと違って、あたしは時と場合と相手を考えるから。」 「考えて、結果外してるだろ、お前。」 相変わらず大通りは閑散としている。一般市民へ避難を呼びかけるサイレンの音だけが響く。警察の抵抗も鎮圧されてしまったのか、いつの間にか銃声も聞こえなくなった。 「ま、信頼すんのは良いけど。」 「まだ文句あんの?」 「あんま少将に心配かけちゃいけないんじゃない?」 「・・・・・。」 彼は何も答えなかった。代わりにハンドシグナルで進む方向だけ示して、周囲に鋭い視線を送りながら歩を進める。とにかく自分の思う通り好き勝手やって、都合悪くなると黙るところは全く子供で、こんなのと付き合う人の苦労を思って頬が緩みそうになるのを必死で抑えた。 最初の連絡が来て50分。現地にこちらの部隊が到着したとの連絡が入った。ディムロス中将もノリス大佐も、願ってもない幸運と久々の実戦に戦意を高め、随分準備を急がせたようだった。結局、二人とも現場に出るようで。褒めて損したかもしれない。 「第一師団からの派遣部隊が到着したようです。」 「順調ですね。」 「結局お二人とも現地入りするそうで。」 「そうですか。」 「大変上機嫌でしたよ、あちらは。」 「・・・何か言いたいことがあるならどうぞ。」 別に全く私情を挟まないことが最上の美徳と言う訳でもないだろうに、頑なにそれを守る彼が何だか可笑しくて、つい「あちらは」の「は」を強調して発音してしまった。心配なら心配な顔をしたって罪ではないと思う。 「心中、お察し申し上げます。」 「察して貰うほどのことは何もありません。」 「頑なでいらっしゃいますね。」 「完璧な存在であるつもりはありませんから批判は甘んじて受けます。」 なるほど、こういうところがこの人の可愛げなのか。ハロルド中佐も変わった趣味をしているなとは思うものの、全く理解出来ないとは感じない。 「ハロルド中佐は大変優秀な方ですよ。」 「それは君に言われるまでもない。」 「少し、お怒りになりましたか?」 「思い違いでしょう。」 「正直、貴方の新鮮な一面が見られたことに感動を覚えています。」 そういえば、僕はいつの間にこの人とこんなに対等に話せるようになったんだろう。 「私見を述べさせて下さい。」 「どうぞ。発言の許可を求めるまでもない。」 「ハロルド中佐は必ず無事にお戻りになると思います。」 「・・・発言の根拠と目的は?」 彼の黄味が強い瞳が真っ直ぐに僕を見ていた。この人は自分を冷たい人間だと思わせたいのか、思っているのか、どちらかは分からないけれど僕は彼ほど情が深い人もいないのではないかと感じる。全く、あまりこの人を悲しませたり、困らせたりしないで欲しいものだ。 僕は少し間を取って、自然と出てきた笑みを隠さずに口を開いた。自分の口にしては珍しく明快な声と、情のある内容が出たものだと後で振り返って不思議に思うような発言だった。 「根拠は勘。目的は気休めです。」 一瞬だけ、怒りの色が映ったように見えた瞳はすぐに閉じられて、彼は大きく溜息を吐いた。吐き出した息と共に頑ななものが落ちていくのが感じられたような気がした。 「今、私は古い言葉を思い出したよ。」 「聞かせていただけますか?」 「曰く、老いては子に従え、と。」 悪戯っぽく彼が僕に視線を送る。僕と彼との関係で、彼の年齢も勘案してその言葉を出してくるのは何とも微妙な気もするけれど、どうやら僕の気持ちは十分彼に伝わったらしい。 「妙な男に引っ掛かると苦労が多いよ。」 「心中お察し申し上げます。」 壮観な眺めだった。第一師団隷下の第32歩兵連隊に砲兵・工兵・戦車を加えた第32連隊戦闘団の全力が、式典宛ら整然と展開していたのだから、目を見張るなと言う方が難しい。戦中ならばこれほど装備、訓練が行き届いた部隊を並べることなどとても出来なかった。 「閣下、各隊準備完了しました。」 「ご苦労。情報が入り次第行動を開始する。」 「はっ。」 連隊長は妙に張り切った様子で報告を済ませると、自分の部隊へ足早に戻っていく。連隊長だけではない。司令部の参謀も、将校も、下士官も、兵士一人一人も、久々の実戦に力が入っている。 勿論、それは私達とて例外ではない。二人して車を飛ばして現場まで出てきてしまったのは何よりの証拠だ。こうしてクーデタを起こした彼らも、こうしてその鎮圧に乗り出している私達も、多かれ少なかれ軍隊の持っている巨大な暴力と、戦争が与えてくれる強烈な生の感覚に魅入られている。 「戦争が好きという訳ではなかったはずなんだが。」 「まぁ、仕方ねーって。」 「私達は他の生き方が分からないからな。」 「ああ。結局、軍人に向いてたから生き残ってる訳だし。」 ノリスが日差しに目を細め、私達の部隊から、私達が目指す街へと視線を移した。昔と違い、あの街にいるのは我々と同じ暫定政府軍で、暮らしている市民も私達と同じ暫定政府市民。その点に関して当然複雑な気持ちはあったが、今はそれを考えないで置こうと思う。 「取り敢えず、三下連中に一師の実力見せてやろうじゃねーか。」 私は同感の意を頷いて示す。その通り。大義名分を掲げようと、私情で自分達に与えられた力を濫用したことに変わりは無い。私達が与えられている力の重さと恐ろしさを、知ってもらわなければならない。 「閣下、クイビシェフに通信が繋がりました。」 「こちらに回せ。」 通信参謀が差し出した受話器を受け取る。良いタイミングだ。ノリスと目が合って、どちらとも無く笑みが浮かぶ。電話口の向こうの彼は、時間のルーズさにかけては深刻なレベルだったが、本当に重要なタイミングは逃さない。その辺りは全く才能と言って良かった。 「よう、久しぶり。」 「ああ。楽しそうだな。」 「二人で来たって?」 「二人と、二千人だ。」 「そいつは楽しみだな。」 言葉に違わない感情の込められた声だった。戦意が漲っている。そういえば戦後こんな様子を見たことは一度もなかったな。半年前のカレリア内戦で彼が少年兵相手に戦ったという事実を思い出して、少しだけ胸が痛んだ。 「一時間で随分見て回ったようだな。」 「ああ、もう観光はじゅーぶん。」 廃校舎の屋上から街を見下ろしているというハロルドからの情報に基づいて、部隊を配置していく。滑るように素早く、一刻も早く破壊を撒き散らしたい衝動を抑えるように整然と。 相手の戦力と配置は完全に把握出来ている。圧倒的な戦力差と情報差が私達に久方ぶりの勝利を与えてくれることだろう。ただ、絶対の安全がないことも私達は熟知している。 「では、始めよう。」 大きく息をついてから、電話口と周囲の参謀達へ告げる。電話の向こうでも何事か行動を始めた音がする。周囲ではそれぞれの部隊の指揮官達が声を張り上げて指示を飛ばしている。轟音と共に、砲弾が頭上を飛び去っていく。 「何と言うか。」 「ん?」 ノリスしか聞いていないことを確認してから口を開く。ノリスも同じタイミングで目の動きだけで周囲に目を配っていた。戦中も今も、こういうちょっとした会話が、私達にとっては公私に渡って重要なのだ。。 「いや、何だか上手く言い表せないんだが。」 「なんだよ。」 「明日は我が身、と言うのは違うかもしれないが・・・。」 整然と進む部隊を眺めながら、何だか非現実的な印象を受けていた。ある種チェスやボードゲームのようでさえある。これを本当のチェスのように思ってしまう人間が、力を濫用してしまうのではないだろうか。そんなことを思って、自分は大丈夫かと漠然と不安になった。 「心配すんな。あーはならないよ、お前は。」 「何故断言できる?」 「いや、そりゃねぇ。」 面倒臭そうな態度は、多分彼なりのちょっとした照れ隠し。或いは無意識かもしれない。さっきからずっと、これから戦場になる市街地を見詰めていたノリスが、切れ長の目の中の黒い瞳だけを動かして私に視線を向ける。 「何のための俺だよ?」 その自惚れが、私にとってどれだけ心強いことか。2000人の精鋭よりも、この一言が私に勇気をくれる。 結果から言うと、天地戦争で数多の苛烈な体験をしてきた第一師団の将校、下士官、兵にとって戦闘と呼ぶほどのものは殆んど生じなかった。クーデタに参加した第438独立大隊は決して貧弱な部隊ではなかったが、自らが属する巨大な暴力装置の能力を見誤っていたのかもしれない。「一師の実力」は証明された。 唯一、激しい戦闘が行われたのは市の中心部に程近い工事現場、老朽化した市立高校の校舎だった。二名の暫定政府将校は屋上に陣取り、古い防災無線設備を利用して第一師団司令部に情報を送り続け、勝利に大きく貢献した。 勿論クーデタ側もこれを制圧するべく貴重な兵力を割いたが、高所に防御拠点を置く側は仮に少数であっても圧倒的に有利であるという戦訓を証明しただけに留まった。 ハロルド・ベルセリオスは全くの無傷で―狙撃の腕前が予備役の軍医中佐に劣っていることが実戦で証明されたことを唯一の傷として―この騒乱から生還し、翌日にはクイビシェフを離れた。 クイビシェフ鎮圧の翌々日の午前中。私はやっと残務から解放され帰宅の途についた。公共の交通機関で帰るつもりだったが、車で送ってくれるというシャルティエの言葉に甘えた。普段なら遠慮するところだが、私は久々の激務ですっかり疲れていたのだ。 部屋の鍵は開いていた。私の部屋の鍵を持っているのは、私ともう一人しかいない。疲れも忘れて部屋に駆け込んだ。 「ハロルド!?」 一昨日クイビシェフで半年振りの実戦に参加し「赫々たる戦果を上げた」と昨日付のレパブリカ紙に書かれていたハロルド・ベルセリオス工兵中佐は、三ヶ月前に勝手に持ち込んだ大きなソファーでだらしなく寛いでいた。 「あ、おつかれ。」 ハロルドは少しだけ身体を起こして、短く私の労を労うと、そのまま元の姿勢に戻って、最近読むようになった小説の単行本に視線を戻した。 普段なら「全くこの人は」と溜息を吐いて終わるのかもしれないが、どうもその日の私は疲れていたのと、こんなに心配をしたのが久々だったのと、シャルティエのせいで何だか素直にさせられていたのと諸々が合わさっていて抑えが効かなかった。 「どうして連絡の一つも寄越さないんですか!」 珍しく声を荒げた私に驚いたのか、ハロルドは呆けたような顔で私を見て、瞬きを繰り返した。私は私で、自分が彼に対して怒りを露にしたことに驚いていた。ただ、内心で驚きながら言葉は止まらない。 「貴方の行動は暫定政府軍人として立派だったと思います。クーデタが殆んど被害なくたった一日で鎮圧されたのは貴方とアトワイト中佐の働きがあったからだと言うのは誰の目にも明らかです。ディムロス中将も、ノリス大佐も、勿論私も貴方を高く評価しています。」 あぁ、私はこんなに饒舌な人間だっただろうか。情けない。こうして気持ちをぶちまけることに慣れていないから身体が震えてくる。 「ですから、こうして私が怒っているのは全く、私の個人的な感情からです。私は、私は貴方の、恋人ですから、どんなに貴方が立派な行動をしていても心配で辛くて、せめて無事だと言う連絡ぐらい欲しいと思ってしまいます。」 こんなに素直な気持ちを出せるなら、もっと良い時に出したかった。 「私は自分の考えを貴方に押し付けるつもりはないし、押し付けて貴方が従ってくれるとも思いませんけれど、でも、私が辛い気持ちだったことぐらいは知っていて欲しいと思ったので、こうして言葉にしました。」 視界が滲む。良い歳をした大人が情けない。情けなくて固く目を瞑った。 「言いたいことはそれだけです。声を荒げてしまってすみません。疲れているので、もう休みます。おやすみなさい。」 踵を返して、自分の部屋へ向かう。涙声にならなくて良かった。言いたいことを言ったのに全く気持ちは晴れなかったけれど、もう取り敢えず寝てしまいたかった。後は起きてから考えよう。 「イクティノス。」 名前を呼ばれたけれど、私は聞かない。私は怒っているから。いつもと違い、大人ぶった説教ではなく、ただ自分の感情に従って怒っていた。 「いや、お前、ちょっとっ。」 彼の声を無視して、バタンッと派手に音を立ててドアを閉めた。上着を適当に椅子に掛けて、ベッドに倒れ込む。身体を横にすると疲れがどっと噴き出てきて、昂ぶった感情も、ドアの向こうから聞こえる彼の声も、全て遠くに置いてすぐに眠りに落ちてしまった。 目が覚めた。窓の外は既に暗くて、随分長く寝ていたことに気付いた。あれだけ怒り狂った頭は、もうすっかり冷えていた。 後悔はあった。歳の割に子供のようなことを言う人間だと思われたかも知れない。普段あまり感情を表に出さないから落差が大きかったかも知れない。流石に嫌われてしまった、とまでは思わないというか、思いたくないのだけれど。 一方で、自分があんなにも率直に感情を表現出来る人間だと再発見したことへの喜びもあった。勿論恥ずかしい行為ではあるけれど自分は感情の乏しい人間だと思っていたから、良い意味での驚きもあった。 ベッドから身を起こし、溜息を吐く。彼に会いたかった。私が今まで通りに接したら彼もそうしてくれるだろうか。今回の件を忘れて欲しいような忘れて欲しくないような、複雑な気持ちになる。 会いたい。会いたい。私はどうして彼の顔を見るなりあんなことを言ったんだろう。折角会えたと言うのに。会いたい時に会いたい人が来てくれるなんて滅多にないことなのに。 そういえば、そもそも彼はどうして私の家に来ていたんだろう。クイビシェフから汽車で帰ってきたなら彼の自宅の方が近いのに。あれ?え、まさか、これって・・・。 「おはよ。」 部屋のドアを開けると廊下に置かれた椅子に、彼が座っていた。さっき読んでいた本は随分進んでいたようで、彼が長くここで過ごしていたのが一目で見て取れた。 「・・・何で?」 「待ってた。」 「だから、何で?」 「うちのアマテラス、踊っても開けてくれそうにないし。」 椅子から立って、本を閉じる。彼が読んでいたのは、私が彼に勧めた神話のアレンジの短編集だった。あぁ、もう、どうして彼は目に見えない部分で私の言葉をちゃんと聞いていたりするのだろう。 「ちゃんと顔見ずに帰ったらもったいないし。」 本を小脇に抱え、椅子を両手で持ち、彼は廊下を歩き出した。彼はいつも、私が欲しがる言葉をさり気なく与えてくれる。 「夕飯食おう。」 「あ・・・はい。」 「作ったから。腹減ってるだろ?」 「・・・・・はい。」 嬉しい。嬉しい。嬉しい。彼が私に会いたいと思って来てくれて、怒らせてしまったことに気を遣ってくれている。私の存在が彼を左右していることの実感がこんなにも喜びを生むなんて思わなかった。 「怒ってる?」 「・・・・少し。」 本当はもうどうでも良かったけれど、怒ってることにすればもっと彼に甘えられる気がしたから、嘘を吐いた。彼も私がもう怒ってないことに気付いているだろうけれど。 居間に入って椅子を戻した彼がキッチンに向かう。私は彼が買ってきたソファーに腰掛けて、ただ彼の動きを目で追っていた。キッチンへの扉の前で彼は立ち止まって、振り向かないまま少し棒読み気味に言葉を吐き出した。 「俺が悪かった。許して。」 それだけ言って、彼はドアの向こうに行ってしまった。所謂「心が込められた物の言い方」ではなかったけれど、自惚れかもしれないけれど、私は彼の言葉に彼の気持ちが入っていることを感じられた。 彼が謝るなんて余程のことだ。アトワイト大佐が聞いたら大笑いするだろうし、シャルティエは絶対に信じない。ノリス大佐やディムロス中将は何があったのかと心配するかもしれない。 あぁ、自分の愛する人が自分を愛してくれていると確認する行為というのは何と愚かで、何と甘美なのか。出来る限り、最大限のサービスをしてくれた彼は、どんな顔をして戻ってきてくれるのだろう。それが楽しみで、戻ってくるのが待ち切れない。 さあ、私は彼をどうやって許してあげたら良いだろう。 あとがき ちょっと歳行ってからの恋愛はピュアだって言うよね。ほら、女子高生に対してすげーピュアな感情で好きになっちゃう馬鹿なおっさんとかたまにいるじゃないですか。あ、今、俺、イクティノスにすげー失礼なこと言ってる?笑 色々詰め込みたくなってしまって長くなりました。アトワイトとハロルドの戦闘シーンがもう一つ挟まる予定だったんだけど、流石に長すぎるなと思って飛ばしました。アマツカさんからのリクエストでアトハロ書く予定だし。その前にミクリトがあるんで、ホワイトデーアトハロとかになるのかな。 イクティノスとシャルティエが話してるとこは「有能な将校」でイクティとカーレルが話してるトコのセルフオマージュです。イクシャルのイクティよりハロイクのイクティの方が冷静さに欠けるトコがあるんですよ。あと、相手がシャルティエだと気を許す部分が大きいのかも。 あと、ノリスはもうちょっと出しても良いよって話があったんで、ノリディム分を足しました。ディムロスに対してはいつもこんなだな・・・。 いつもより本文もあとがきも長めでお送りしました。お読み頂き有難うございます。では、また次の作品で。 |