Apocalypse996 目次 六/連邦暦996年12月23日昼過ぎ クルガン州中央部ブドレフスカ川東岸 主防御陣地 12月に入り、いよいよ寒さが厳しくなっていた。南部生まれの自分にとってこの寒さは実感以上に堪えていることだろう。ミクトランは持ち前の客観的な思考回路で自分のあらゆる能力が低下する可能性を認めていた。持って回ったような考え方だが、寒くて辛いという素直に過ぎる思いが頭の中で膨張するより幾分マシだと本人は思っている。 リトラーはどうしているだろう。ミクトランは彼の思考の常として自分のことと合わせて彼のことを思った。今の時間は隣の陣地を担当しているはずだった。兵の前でくしゃみなどして呆れられていないだろうか。いや、それすら彼にとっては愛嬌になってしまうのだけれど。そんなことを思っている一時がミクトランにとっては戦場にあって最も心が安らぐ瞬間だった。 大地に切れ目を入れたかのように掘られた塹壕の間を、冷たい風が音を立てて通り過ぎていく。同時に兵士達が寒さに対して悪態を吐くのが耳に入った。ミクトランも思わず、微かに身震いをする。 「指揮所に入られては?」 「ありがとう。だが心配要らない。」 この一ヶ月、この若過ぎる上官に対する認識を徐々に改めつつあった小隊軍曹に、彼は持ち前の威厳ある態度で応えた。ミクトランは自己表現の分野に関して能力の不足以外感じたことがない人間だったが、上官として仰ぐに足る人物であるという点を部下が誤解することはなかった。冷静で勇敢、かつベテラン下士官の助言を良く容れる小隊長は、例え若過ぎ、例え何を考えているか分からない部分があったとしても仕えるに足るのだ。 「それに、そろそろ交代だ。どうせなら見栄を張り通した方が良い。」 ミクトランはいつもの冷淡な表情だったが微かに口角を上げていたから軍曹には彼が冗談を言ったのが分かった。程度問題と言う部分はあるがユーモアがある上官というのは部下に好まれるのだ。 20分後、陣地での警戒任務が第二中隊に引き継がれた。ミクトランは防御陣地の数キロ後方、風が少しは遮られる野営地の小屋に入ることが出来た。川の向こうからいつ敵部隊が現れるか知れない陣地の中に比べたら、数キロしか離れていないとは言っても天国同然に思える。 彼は寒さと恐怖から開放されるという原始的な喜びに浸る自分を認めていたが、そこには「偉そうに将校ぶっていても所詮は」という自嘲が含まれてもいた。加えて、素直に喜ぶということが出来ない自分に落胆してもいた。 そう言った諸々の感情が綯い交ぜになった結果がいつもの冷淡な表情だった。ただ、他に遣り様がない故のその顔ではあったが、常に表情を変えないその姿に兵が頼もしさを覚えていると言うのは彼にとって痛烈な皮肉だ。 「リー少尉、中隊長殿が小隊長集合とのことです。」 身体が温まったことでやっと全身の神経がまともになった頃、中隊本部班の兵士が彼を呼びにきた。腰を下ろす暇も無しか、と思ったが複雑な感情を抱えたまま暖を取っているよりは何かしら仕事をこなす方が有意義であるように思えた彼は、足早に小屋を出た。 「ミクトラン。」 小屋を出たところで後ろから声がかかった。誰か、と考えるまでもなかった。誰より聞き慣れた声は先程まで抱えていたもやもやしたものを一瞬で忘れさせるだけの効果がある。リトラーはすぐに追い付いて、20年近く前から変わらない場所、つまりミクトランの隣に立った。 「今日は寒いな。」 「ああ。」 寒い、と言うだけのことだがリトラーが言うのを聞くと何か楽しいことに思えるから不思議だった。早速リトラーは今日下士官に言われた小言を笑顔で喋り始める。顔を合わせる度に聞いているからミクトランはかなり彼の小隊のことに詳しくなっていた。 だから、以前は良く話に出てきた「生物教師似の軍曹」がいつの間にか登場しなくなったことにも気付いていたし、その理由も大体察しがついていた。勿論、ミクトランから尋ねることはない。リトラーが話に出さないなら触れない。彼が示す謙虚な優しさの器用とは言えない表現方法だった。 集合、と言っても中隊本部に集まったのは人員不足の関係で小隊長から繰り上がって中隊長を務めている中尉と、この春士官学校に入ったばかりの学生で少尉の軍服を着せられているのが二人、計三人きりだった。 本来の編成では中隊長の大尉が一人に小隊長その他を務める中尉、少尉―勿論、士官学校で二年の入念な教育を受けた―が合わせて4〜5人はいたはずである。半分は後方の病院で療養中、もう半分は棺に入れられて、或いは認識票だけになって故郷に帰っている。 「敵の攻勢があるかもしれん。」 まだ20代前半の筈だが中隊長は激務の為か随分年を取って見えた。元々はこの中隊の小隊長で、この北部内乱が初めての実戦ということだったから心労が大きいのだろう。彼は、机に広げた地図上のブドレフスカ川東岸に8個の駒を配置した。駒一つが一個小隊に相当する。第305教育大隊が有する全戦力だった。 第305教育大隊は四個中隊に分かれ、各中隊が二個小隊ずつを持つ形になっている。人員の摩耗で四個中隊×三個小隊編成が出来なくなっているためだ。単純計算で戦力は三割減。普通なら前線を任され続けはしない。 「敵には戦車を含む車両の増援が来ているらしい。」 ブドレフスカ川は幅こそそれなりに広い物の深さはない。内乱軍の旧式車両でも渡河は難しくないだろう。川向うの敵がこちらの防衛戦の突破を図るなら勿論狙うのは最も防御が薄いと思われるところ、つまり・・・。 「上級司令部から増援は?」 「大隊長が要請したらしい。対戦車中隊が明日中には着く。」 先程まで無邪気な顔だったリトラーはいつの間にか引き締まった顔で地図を見詰めていた。決して好戦的とは言えないタイプだった彼は、今はこの地域でも指折りの勇猛な小隊長として周辺の部隊からも知られるようになっている。ミクトランとしては頼もしくもあり、一方で複雑な気持ちでもあった。 彼らの中隊は現在大隊の中で「比較的良好な戦力を有する」とされている。勿論、言葉通り比較の問題ではあるものの当然ながら危険な役割を背負わされると見て間違いない。ミクトランは気が重かった。 「そういう訳だ。今日は休め。酒も少しなら構わん。」 細かい戦術面での指示を確認した後、中隊長はそう言って締め括り、恐らく私物なのだろうウィスキーのボトルを寄越した。こうして下級将校は消費されていくのだなぁ、と諦観に近いものを感じつつ中隊本部を出る。飲んで良いと言われても酒は飲んだことがなかった。 「どうも今度はまずそうだな。」 「お前が言うとまずそうには聞こえないよ。」 「じゃあ何に聞こえるんだ?」 「まぁ見ていろ、みたいな。」 リトラーはまた、無邪気な顔に戻っていた。彼から見ると私は随分と肝の太い人間に見えるらしい。それが事実であるか自信は無かったが、それが彼の期待ならば応えたいとは思う。 「・・・飲むか。」 「酒、飲んだことは?」 「私は無い。お前は?」 「無い。」 二人して笑って、琥珀色の液体が入った硝子瓶を揺らした。これが中隊長が我々に対して出来る精一杯と言うことなら無駄にするのも悪い。 それに、彼と酒を飲むというのは昔からしたかったことの一つだ。したいことを出来るうちに実現しておくに越したことはない。ん?これはつまり、悔いを残して死にたくないと言うことかな?そういう態度は好みでないが・・・。 初めて飲む酒の味は良く分からなかったが、ラシーヤのトウモロコシで作られたウィスキーが初心者には強すぎるものなのは良く分かった。一口で自分の頭の働きが何パーセントか低下するのが感じられた。この感覚への評価は時と場合に寄って変わるだろうが、少なくとも一時でも忘れてしまいたいようなことには事欠かない現状では歓迎されるべきものだと思われた。 「リトラー、お前は本当に・・・。」 自分の声が大きくなっていることに気付いたが彼は気にしなかった。小屋にはリトラーとミクトランの他は誰もいないのだ。中隊の士官用に割り振られた小屋はすっかり広くて持て余し気味になっていた。 「どうした?」 ミクトランは返事がないリトラーの方を窺いながら、ボトルに直接口を着け、どう考えても初心者の身体には宜しくない液体を内部に流し込んだ。印象では、既に普段の半分も頭は働いていなかった。その印象の基準すらアルコールの影響で正しく機能していないことも彼は認めていたから、実際はどれ程ひどいのか良く分からない。 「・・・リトラー?」 流石に声が小さくなった。彼は相手が既に眠っていることに気付いたのだ。顔にかかっていた長い髪をそっと除けてやる。リトラーは少し擽ったそうにして、それからまた静かに寝息を立て始めた。 急に胸が大きく鳴り出した。リトラーが目の前で寝ているのだ。彼は平静を保とうとしたがそれは無理というものだった。もう一口ウィスキーを煽る。そうして、さっきまでリトラーもこのボトルに直接口を着けていたのだと思い出して狼狽した。 ああ、もう、どうしていつもこうなんだ。 眠っているリトラーの顔に手を伸ばしかけ、引っ込める。今眠っているこの人物は唯一無二の存在で、その感情は恋慕というより信仰に近かった。信仰となると感情の対象は彼とリトラーとの関係という部分にまで拡大される。要は、彼が人生の中で築けた唯一の絶対的な関係に傷を付けるようなことは出来なかった、それだけのことである。 「高校生の頃から何も変わらないな、私は。」 お得意の自嘲から頭を働かせようとする。自分の寝床に腰掛け、深い溜息を三度。もう一度リトラーの寝顔を見た。素直な欲望が脳内で渦巻く。 どうして同性に生まれたのだろう。10年前から慣れ親しんでいる出口のない思考で自分を宥める。どちらかが女性だったら、高校時代に何かのきっかけで交際が始まったりしたのだろうか。高校時代に最も時間を割いて思考を及ばせたIFだったが、今となっては恥以外の何物でもない。以前の自分を恥じることで彼は平静を取り戻した。 相変わらずリトラーは静かに寝息を立てている。高校時代に辿り着いた答えは、例え異性でも自分にこの関係を崩す度胸などないというものだった。想像の中でさえ無理。現実はより厳しい。 ただ、一つだけ良いことがあった。こうして逞しく想像を働かせ、その度に敗れる経験をしてきたお陰で現実世界で随分と冷静で勇敢になれるようになったということだ。きっと、それは明日の戦いで再度示されることになるだろう。 考えることが馬鹿らしくなった彼は、一気に残りを飲み干すと、彼らしく丁寧にボトルを床に置いた。再度溜息。視線を天井に泳がせ、またリトラーへ。 「おやすみ、メル。」 ミクトランは、こんなにも複雑な思いを抱く以前に彼がそう呼んでいたようにリトラーの名を呼ぶと、殆ど同時に眠りに落ちた。 あとがき ミクトランは態度と内面が結構違う人なので心理描写を書いていて楽しいです。リトラーといる時の態度と部下といる時の態度とで随分差があるってのも可愛げですよね。 軍隊だけではなく、リーダーと言うものは演技を必要とされる訳で、それが必要ないのは余程人徳がある人ということになります。ミクトランは実際後者の部類に入れても良い人物なんですが、彼は常々自分を過小評価する癖がありますから・・・。 BACK |