A Bloody Bloody Little War

血まみれの
残虐な
忌々しい
或いは、くそったれの
ひどく小さな戦争



一.
その日、ハロルド・ベルセリオス大尉が仕事場に到着したのは、軍の規定が定める始業時刻から三時間ばかり経過した頃だった。

血圧がやや低めの彼は午前中全く調子が出ない人間で、配属されて以来三ヶ月いつもそうしていたように、不機嫌としか言いようがない顔で、軍務省保安局調査室の室次長席へ腰を下ろした。彼が現れたことで部屋の空気は主に悪い方向に変わったが、誰もそれについては何も言わない。

その理由の一つは彼の育ての親が連邦軍―今は敵側に当たる天上軍と対比させて「地上軍」と呼ぶ方が一般的になってきている―総司令官であるからだが、そんな親の七光りよりもむしろ三ヶ月前まで前線で戦っていた彼の武勇伝に尾鰭がついて広まっていたことの方が理由としては大きかった。

士官学校を卒業して三年目の大尉が、連隊長と参謀長を怒鳴りつけ、叱り飛ばし、半ば脅迫のような形で連隊を動かして天上軍の威力偵察を撃退したという話である。勿論、原作からしてとんでもないのだが、敵は旅団級の部隊だったとか、最新鋭の戦車中隊も混じっていたとか、広まるうちに尾鰭が付いたせいで、彼の評判は、とんでもなく勇敢ではあるが上官の胃痛の種にしかならない猛将ということになってしまっていた。

それがあながち間違った評価でもないことが、この後に続く彼の軍歴で明らかになる訳だが、現状の彼は軍歴に早くも傷がついてしまった若手将校に過ぎない。前線の部隊から敬遠された結果、不本意な職場の椅子に座っている。

不本意とは言っても、彼は戦中に育った若者らしい仕事熱心さだけは持っていたから、この遅刻も理由が無いものではない。彼はここに来るまでに一仕事終えてきているのだ。

「おはよう、ハロルド。朝からご苦労だった。」

ハロルドの隣の席に座るクルト・ブレーマーが沈黙を破った。知性を感じさせる広い額が特徴的な男で、人の良さそうな丸顔をしていた。三十二歳の中佐。組織の拡大と大抜擢が日常茶飯事になりつつある地上軍の中では可も不可もない出世具合と言ったところだった。

役職は保安局調査室長。つまり、物好きにもハロルドを引き受けた勇敢な上官ということになる。人の良さに漬け込まれて押し付けられたんだろう、とハロルドは踏んでいた。

「おはようございます、室長。」
「何度も言うようでうるさく思っているかもしれないが、クルトと気安く呼んではくれないか。」
「・・・はぁ。」

彼らしくない曖昧な表情と、はっきりした意味を伴わない返事でお茶を濁す。この毒にも薬にもならなそうな上官との距離感を三ヶ月経っても計りかねていたのだ。頭の回転は速いし、仕事ぶりはマメで部下への配慮も行き届いている。しかし、何と言うか、この人には市役所のオフィスがお似合いではないかと思わせるような、頼りない印象がある。

この世界で、彼が尊敬するたった二人の人物のうちの片方、兄のカーレル・ベルセリオスはブレーマーを優秀な軍人で優秀な諜報員だと言っていたが、どうもそんな風には見えなかった。とは言え、兄がそう評する人物だから邪険にはしなかったし、毒気を抜かれてしまって邪険に扱う気にもならなかった。

軍務省保安局は、この世界がまだ二つに別れていない頃に作られた諜報組織で、軍内部の不穏分子を監視することが最大の目的とされていた。もっとも、この戦争の契機となった天上都市クーデタを未然に防げなかったことから、その地位はかなり後退し、地上軍情報部こと参謀本部第二部に大きく水を空けられている現状がある。

自然と、保安局は情報部への対抗心を燃やし、特に厳しく目を光らせるようになった。悪く言えば粗探し、良く言えば諜報組織に対するチェック機能の提供でも言えば良いだろうか。ハロルドが所属する調査室の対象というのは、正に情報部そのものだった。

「仕事は慣れてきたかね?」
「まぁ、それなりに。」
「身内を探るというのは良い気分がしないかもしれないが、まぁ、これも大事な仕事なんだよ。」

ハロルドの今朝の仕事もその関連で、情報部に出入りしている業者に金を掴ませて話を聞いているのだった。こちらの身元は明かさないが、それとなく天上軍の諜報員であるかのように装っている。不自然にならない程度にラシーヤ訛りの言葉を使い、礼金も天上側占領地で流通するガルド札で支払った。

勿論、簡単に情報は得られない。今日聞いた話も地上軍将校なら噂話程度に誰でも知っている話だった。そんなことでも、いちいち報告書にまとめなくてはならないのだ。どうでもいい情報を積み重ねることが重要と頭では分かっているものの、あまり気乗りはしない。加えて、彼は生来字を書くということが好きではなかった。それでも、仕事は仕事。報告書の作成にかかる。

「あぁ、ハロルド、今日の分のペーパーは明日で構わないよ。」
「はーい。」
「代わりにというのもアレだが、ちょっと他の用事を頼んでも良いかな?」

ブレーマーが彼のそうした様子に気づいたから話を振ったのかは分からないが、デスクワークと、ちょっとした情報屋の買収を続けて三ヶ月、そろそろ環境の変化を望んでいたハロルド・ベルセリオスは上官の言葉に目を輝かせた。同時に、今日一番のはっきりとした声で応じる。

「喜んで。」







二.
参謀本部第二部は戦中、軍事的・政治的な必要に迫られて拡大しただけあって、特殊な構造の組織だった。

参謀本部内の部局として情報を統括する一方で、一個師団に匹敵する戦闘部隊を持ち、また大陸中に大小の拠点と協力者の情報網を張り巡らせている。情報の収集や分析は勿論、それを利用した実際の行動までを行える自己完結性は独特のものだった。

その独特の組織を率いる人間は、当然特殊な能力を要求される。部隊指揮官として、参謀として、また諜報員として有能でなければならない。参謀本部第二部長イクティノス・マイナード少将は、まさにそのような人物だった。いや、むしろ、彼のような人物を得たからこそ、情報部は特殊かつ強力な組織になりえたのかもしれない。

「少将。」

質素な執務机で報告書に目を通していた彼に補佐官が声を掛ける。彼の部下は皆、彼をそうに呼ぶよう教育されていた。閣下でも部長でもなく階級である「少将」と呼ばせるのは、彼の独特な流儀だった。

「定期報告が三通来ていました。」
「また増えてしまいましたか。人生が報告書を読むだけで終わってしまうのではないかと心配になります。」
「お疲れ様です。」

肩を竦めるイクティノスに苦笑いする補佐官はとても若かった。幼いと言っても良かった。それもそのはず、地上軍の規定で志願の最低年齢とされている一五歳を満たしたばかりだった。それでも中尉の階級章を付け、イクティノスを補佐する重要な立場にいる。名はピエール・ド・シャルティエといった。

出身不明の孤児、元天上少年兵、捕虜からの転向、という最悪に近い経歴の持ち主で、去年彼が少尉に任官した時には人事担当者が四〇度の熱を出して寝込んだなどという都市伝説があるほどだった。

「全て読むのは難しそうですね。新しい分については君が目を通して、要約したものを提出してください。」
「了解しました。二時間もあれば済むと思います。」

それでもイクティノスは彼の能力と経験を高く買い、こうして重用している。自分宛の書類には全て目を通させ、時には職務を代行させた。

そんな扱いに対して「少将閣下の御稚児」などと揶揄する声もあるが、表立ってそのように言う者は殆どいない。この一年の間に、シャルティエが顔色一つ変えずに人間を殺す恐ろしい少年だと誰もが知るようになっていたからだ。

「それと、ですが。」
「それと?」
「最近、鼠が出るようです。そのような話をいくらか耳にしました。」
「鼠、ですか。」
「大きな害はありませんが、放っておくのは具合が悪いかも知れません。」

幼さを残した丸みのある顔の中心で細められた二つの目が、年齢不相応な残虐な光を帯びていた。この顔を見ると、軍歴二十年のベテラン下士官も震え上がるというが、イクティノスだけは全く動じない。そればかりか、困ったような微笑を湛えてみせた。

「鼠は感心しないけれど、シャルティエ、あまり品のない表情をするものではないよ。」

途端にシャルティエの表情が変わる。有能な補佐官の顔でも、冷酷な殺戮機械の顔でもない、年齢相応の慌てた顔を一瞬見せた。そして、それを更に慌てて取り繕う。

「も、申し訳ありません。どうも血の気が抜けないもので。」

シャルティエの反応を見て、イクティノスが口角を上げる。自分が相手にしているのが人間だと実感できることは素晴らしい。

「私の補佐官なのだから、しっかりしてもらわなくてはね。ちょっと同業者の影がチラついたくらいで、楽しそうな顔をしていてはいけない。」

優しくたしなめられ、シャルティエは元々小柄な身体をますます小さくする。ただ、イクティノスも最近情報部の周りで活発に動いている同業者をこのままにしておくわけにもいかないだろう、とは思っていた。少し痛い目を見せておくのも今後のためには必要だろう。

天上軍内部の競合するいくつかの情報機関は横の争いが激しいために積極性と攻撃性が強く危険な存在だし、中立のハンゼ商工会の情報部は軍事的に脆弱だからこそ、陰での動きにかなり力を注いでいる。地上軍内部にも情報部への敵意を隠さない組織は幾らでもいる。どちらが上かを分からせて衝突を未然に防ぐことも重要だろう。

「シャルティエ、防諜班と連携して対処を・・・」

言い掛けたところで、電話が鳴る。自ら電話を取ったイクティノスの表情が強張った。「分かった。ありがとう。」とだけ答えてイクティノスは電話を切った。

情報部員が死体で発見された。他殺の可能性が濃厚。そう報告する電話だった。

「鼠では済まないかもしれませんね。」







三.
大通りから一本入ったところに止められた白いライトバンを囲んで、人だかりが出来ていた。警察が解散するように促していたが、野次馬はそれを聞こうとしない。自動車の中には死体があるようだった。かなり凄惨な殺され方をしたらしく、窓やシートが赤く黒く染まっているのが垣間見えた。凶器は銃だろうか、窓には弾が貫通した痕もあった。

戦時中ではあったが、後方地域では血なまぐさい事件はそれほど多くはなかった。警察と憲兵が常に目を光らせていたし、徴兵されて犯罪者予備軍が町から姿を消していたからだ。

現場のすぐ近くにハロルド・ベルセリオスの姿があった。帽子を目深に被り、人だかりに紛れている。これまでの経験から、さっさと逃げ出したい気持ちを抑えて野次馬を装い、目立たないようにしていた。内心には困惑がある。

「情報部内の協力者に会ってきて欲しい。活動資金と報告書を交換してきてくれ。」

ブレーマーの用事はそれだけのことだった。指示された場所に止まっている白いライトバンの窓を三度叩けとだけ言われていた。こんな面倒なことになるなんて聞いていない。

目立たないように姿をくらまして、早くこの件を報告しなくては。身に覚えがないことでも警察や憲兵に捕まると面倒なことになる。

そう思っていたら、ふと周りの連中の視線が自動車から移っているのに気が付いた。大通りを軍人の一団が歩いてくる。さっきまで騒いでいた野次馬が静かになり、道を開ける。

「地上軍情報部です。この件はこちらに引き渡して頂きます。」

先頭の小柄な将校が、現場検証を始めていた警察官にそう言った。情報部と聞いて警察も民間人も顔色が変わる。得体の知れない活動をしている情報部を恐れるのは誰でも変わらなかった。

「軍人さん、この件はすでに我々警察が捜査に着手していましてね。わざわざお越しいただいて恐縮なんですが、お引取り願えませんかね?」

年嵩の刑事が嫌悪を隠さない表情でそう言った。周囲では若い警官が心配そうに眺めている。すると、情報部の一団の中心から一人が進み出た。その顔をハロルドは知っていた。情報部長イクティノス・マイナードだった。

「情報部のマイナードです。既に市警本部と憲兵司令部には了承をいただいています。」

刑事はただの殺人事件に情報部長が出てきたことへの驚きを隠し切れない様子だった。情報部の一団は能面のような表情のまま、刑事達を見つめていた。

「こちらに引き渡して頂きます。宜しいですね?」

トドメの一言。刑事は一つ舌打ちをすると、警官達を集め、不機嫌そうに肩を怒らせ、野次馬を掻き分けながら去っていった。

ハロルドは、それに乗じてそこから離れようと思った。情報部まで出てきたのでは一層危険だ。万が一捕まるなどということになると、ただでは済まない。なるべく自然に、少しずつ、この場を離れよう。解散させられる野次馬に紛れて、二歩三歩と後ずさる。

「あ。」

通行人とぶつかる。その時、ハロルドは違和感を覚えた。こんな街中にあるはずのない臭いがあった。それは彼が慣れ親しんだ戦場の臭い、血と硝煙だった。暫く離れてはいたが、日々をその中で過ごしていたのだから間違いようがない。

視線を向ける。何の変哲もない格好をした、何の変哲もない背格好の、何の変哲もない男だった。あいつが犯人か。

追おうとしたが、それは叶わない。自分が身体のバランスをひどく崩していることに気付いた。今まさに、前のめりに転ぼうとしている。臭いに気を取られたのか、或いは緊張で身体が硬くなっていたのか。そうでなければ、人とぶつかったくらいで彼が転ぶなど、そうそうあるはずがなかった。

膝と手を突き、派手に転ぶ。周囲の視線が彼に集まる。まずい。血の気が引いた。

「大丈夫ですか?市民の方には刺激が強すぎたかもしれませんね。」

先頭にいた小柄な、子供のような将校が歩み寄り、親切にも手を貸そうとした。苦手な愛想笑いを浮かべながら、ハロルドは頭を働かせる。どうしよう。まずい。まずい。乾いた口を無理に開いた。

「すみません。」

ハロルドには、このまま怪しまれずにこの場を離れる自信がなかった。諜報員としての経験値の不足に歯噛みする。やるしかない。決意を固める。差し伸べられた手を取る振りをして、将校の腹部へ拳を叩きつけようとした。

空振り。子供のような顔の将校は拳を避けながら剣を抜き、一瞬にして目に殺気を漲らせる。後ろでは他の兵士が銃を手にしていた。まずい。まずい。まずい。

一目散に逃げる。市街地では民間人の巻き添えを出さないために簡単には発砲しないはずだ。危険とは思いつつも背中を向けて走る。

「シャルティエ!」
「はい。」

剣を抜いた将校―シャルティエという名前らしいと混乱の中でもハロルドは把握した―が追ってくる。大通りから細い脇道に入るが撒けない。

「そこの男、止まりなさい。」

相手の方が速い。追いつかれる。ハロルドは舌打ちをしながら振り返り、ポケットを探る。護身用に渡されていたリボルバーがあった。一瞬逡巡したが、意を決してシャルティエに向ける。撃つ気はない。銃で怯ませたらそのまま逃げるつもりだった。

しかし、シャルティエは銃口に怯む様子も見せずに駆けてくる。走っている相手に銃が殆ど当たらないことを知っていて、しかも、その知識を勇気に変換できる。実戦経験者だ。ハロルドは改めて相手を高く評価した。ポーズだけで怯ませることは諦めた。相手の未来位置を予測して照準を合わせる。

「覚悟を決めたか?」

シャルティエは、自分があと数歩で銃を外しようがない距離まで迫ること、そこに飛び込む瞬間を相手が待っていることに気付いていた。遠い距離からの無駄弾を使わず、至近距離で確実に仕留める。かなりの手練だ。それでも、気にすることなく走った。

外しようがない距離まで踏み込んだ瞬間に相手は撃ってくるはず。意図が読めれば、撃つタイミングを予想して避けることも出来る。そうすれば、銃の優位はなくなり相手に一撃を与えられる。シャルティエはそう決めた。

あと三歩。

二歩。

一歩。

ここだ、と思ったところで踏み込んだ左足を外へ向け、身体を傾けて半回転する。避けた。そう思った。しかし、銃声はしなかった。そして、身を翻して切っ先を伸ばした先には誰もいなかった。

「え。」

振り向くとターゲットの背中が遠く見えた。シャルティエは気付いた。奴は最初から撃つつもりなんてなかったのだ。逃げ切るために、ぎりぎりの勝負をするふりをして自分を引き付けた。何て勇敢な逃げ方をする敵だろう。











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